考察や雑記。

ヘーゲルと熱運動

本格的に寒くなってきた。こうなると、おしるこが食べたくなってくる。おしるこの小豆は、それなりに形をとどめたものが好きである。そういえば、この前お餅を電子レンジで温めてみたのだが、もの凄く膨らんだ。温めが終わると、急激にしぼんで布のようになってしまった。これでは、焼いたようなパリパリ感が味わえない!でもけっこうおいしかった。

さて、昨日ツイッターで、たまたまヘーゲルに関するツイートを見かけた。以下のような内容である。

画像1

ヘーゲル精神現象学」の一部分。画像の部分が何頁なのかは不明であった。)

熱運動

これを読んで思ったのが、熱運動だ。NHK高校講座の熱運動に関するPDFを見てみよう。

■熱と温度とは…
温度とは物質を作っている原子や分子の運動(熱運動)の激しさで決まる。原子や分子の熱運動のエネルギーが増えると温度は上がり、減少すると温度は下がる。この熱運動のエネルギーが「熱」の正体である。

事物の運動によって、熱いと冷たい、熱と冷という対立が生まれる。この区別は、確かに実際にはなんらの区別でもない。原子や分子という事物のあり方、つまり物質の運動のいかんによって、熱と冷が生まれ対立するからである。同名の運動の中で熱は冷に移行し、冷は熱に移行するが、熱と冷は絶対的に移行するものであることがわかる。熱が常に熱になることはありえず、また冷も同様である。固定しえないのだ。

熱は冷と相対することにおいて熱たりえ、冷もまた同様である。相対して互いに排斥しながらも、どちらも相対によってしか存立できないわけであるから、必然的に引きつけあいながら斥けることとなる。熱と冷は不可分にあるのだ。

区別がもうけられるとはいえ、その区別は結局のところ運動によるものであって、このことにおいてその区別はなんの区別でもない。区別は廃棄され、このように区別は一概念として確立する。画像の「ことがらそのものの…」というのは物質の運動そのもののことであり、この場合は熱運動のことである。

物質の運動に属するこの区別は、熱運動として同名であり、この熱運動における熱と冷が転化することにおいて、みずから自身を排斥している。熱となるとき冷を排斥し、冷となるとき熱を排斥する。熱運動が熱と冷という対立を定立しながら、また同時にいかなる対立でもないのは、先に述べたように熱運動が熱と冷という不可分の関係にあるからである。原子や分子の運動における熱と冷は対立を定立するが、一運動としてはいかなる対立でもない。

止揚

摩擦によって熱を感ずるとき、冷を感ずるとき、この二つの個別的な知覚は熱と冷としてある。また、外界における運動としても原子や分子の激しさによって熱になり、冷になる。つまり、結局は運動のいかんによって、熱と冷が生じるのであるから、一つのあり方として扱うこともできるのだ。熱いこと、冷たいことはこうして熱運動として統一された。これら個別的なあり方は、差異がありながらどちらも運動としてあるから、これを統一すると「熱運動」となる。互いに否定する矛盾、そして対立する個別的なあり方から、重要な部分がすくいとられ、一つのあり方になることを止揚という。

射映

射映も止揚によって成る。空間的な事物である椅子は真ん前から見れば二本の脚のある物体であるが、少し斜め横から見れば、それが複数の脚を持つ立体的構造の物体であることがわかる。前者を個別的な視点Aとし、後者を個別的な視点Bとしよう。視点Aは視点Bを否定し、同様に視点Bは視点Aを否定する。このAとBを統一することによって、その物体への知覚はAとBでありながら、AとBにとどまらない知覚を得ることができる。視点Aと視点Bは止揚された。この止揚されたものをCとするならば、さらに視点Cは真上から見た視点Dと統一される、というふうに無限に止揚する。また、個別的な視点AとBは止揚によって普遍的な視点Cになったとしても、なお個別的なAとBとしての要素が残っている。