以下は2022年3月5日の日記。
戦争を反対する主張や反戦運動にたいしての嘲笑、揶揄、外野からの傍観と中立、核武装の正当化、改憲の主張を糧とするのが戦争の一つの側面だ。これは、戦争の本質を語っているわけでは全くないことに注意。戦争を語ることはとても難しく、私にはその断片のさらに表面的な部分しかわからない…。
人は様々な幻想を抱く。軍保有や軍拡(軍備拡張)によって戦争は防げるという幻想、市民のために戦争がなされるという幻想、戦争には功罪があるという幻想、軍隊は市民を守るという幻想、いつまでも外野から戦争を傍観、あるいは分析できるという幻想などである。
感覚的には、戦争は自然現象のような、突如として起こる客観的な現象に思えるが、もちろんそうではない。戦争はたった一人のある権力者だけで生じるのではなく、その権力者を称揚することにより、自らも称揚される者たちによって生じる。また、戦争がひたひたと近づくにつれ、政治にさして関心のなかった者まで、権力者を擁護し始める。人は、そのときの政府や支持者たちによって精神と骨の底から扇動されるわけだが、この緊張の中で、立場と自分の考えを持てたことに安堵してしまうのである。「それならば、私は何も知らない、どちらにもならない」という中立はただの傍観であって、戦争はそこを素通りして開戦される。そして、戦争が終わった際にはあらゆる言い訳が跋扈する。「私は何も知らなかった」、「仕方がなかった」、とか言う。もっとも、言い訳は生き残った者だけができるのであるが。
大きな視点で見れば戦争は相手国への攻撃であるが、小さな視点で見れば、陸や海でただただ人が人をあやめている。それも、話したことも会ったこともない者をあやめている。もしそれが知人や友人であったならば、これを表現できるにたりえる言葉はない。美しい建造物や、美しい街並や、美しい草原や海は、人が人をあやめる戦場となり、その中で人は亡くなってしまう。美しい景色は、破壊や汚染で廃れ、二度と戻ってこないかもしれず、記憶や写真にうずくまるのである。戦争が始まると、非日常が日常へと一転する。それも凄まじい早さで一転する。
なぜ「自衛隊」なのか
素人がガタガタとなにを言うか、戦争に反対するのは簡単だろうと思われるかもしれないが、戦争に反対するということは、裏切り者や怠惰者として見なされ、暴力されるリスクが常に伴うことである。軍隊(日本の場合は自衛隊)は、有事のときに救助や支援をするから市民を常に救うように思え、これによって市民は、軍隊は救済的存在だと思い込むのである。だが、戦争になれば一転して軍隊は市民を取り締まる。警察も同様である。災害救助の場合、別に迷彩服を着る必要はないし、そもそもそこで自衛隊(軍隊)と名乗る必要もない。本来なら、迷彩服や軍服ではなくピンクや黄色の目立つ服を着て、名称も災害救助隊でよいであろう。
また、ときに市民は、市民どうしお互いに監視しあって自らを取り締まる。
軍保有や軍拡は戦争を促す
軍保有、軍拡、核保有・核武装などをすれば、牽制によって戦争に反対できるという主張は自己矛盾している。それら自身の中で戦争が肯定されているからである。戦争への牽制は、戦争の準備である。往々にして『平和』維持の自衛のために、先制攻撃で戦争は始まってしまう。
さて、以下の引用を見てほしい。
直接的な暴力への抵抗だけでは、戦争は全く防げないし、むしろ戦争をするための口実にさえなる。
もし直接的な暴力のみを防いでも、②構造的暴力と③文化的暴力が残っていれば、戦争に導かれる萌芽が生まれてしまう。注意しなければならないのは、たとえば、①直接的暴力にも②や③の要素が含まれているのだ。暴力の要素は交差的なのである。
②構造的暴力や③文化的暴力に着目しよう。軍隊は、膨大な資金をもって、多くが男性で形成される。そして、人をあやめることのできる人間へと訓練され、同じ人間と戦闘する。どれだけ訓練されても、敵国だとされた相手をあやめるとき、脳裏の一瞬にはその者の私生活が鮮烈に再生されるであろう。男性は戦闘によって何を得るか。心的な外傷と死を得る。「十分に訓練された兵士は、そんなことにはならない。冷静に、『平和』のために戦うのだ」という主張は、ファンタジーを信じるロマンチストに違いない。銃後の女性やPTSDのなんら描かれていない戦争映画や戦争アニメで戦争を学びはじめたら、それはあなたが戦争にいざなわれている証拠である。
銃後の女性は、軍需工場での労働や通信業務や医療行為などを通じて、軍隊の男性をケアする。男性が外で働き、家庭で女性が家事をするという差別的な構図と重なる。そして、男性は自らの権力性を女性に誇示したり、自らの暴力を正当化したりする。常套句が響く、「誰が戦って(食わせて)やっているのだ」と。男性が外で、女性は内で、そして企業は男性中心の競争で、という社会は、戦争を肯定している。極めて残酷ながら、戦争は人間の予想を凌駕し、女性でも子どもでも老人でも、できるだけのあらゆる人間が戦闘に駆り出される。
軍保有や軍拡する過程と、そして実際の戦闘の中で、性別役割の観念とミソジニー(女性への制裁の思想)は強められていくのである。「戦争はよくないが、戦争の準備によって、女性の労働環境の整備や社会進出が促進されているのではないか、戦争にも功罪があるのだ」と主張すれば、権力者は嬉々として拍手する。女性の生きやすさの追求は、戦争の準備を通じなくとも可能で、戦争や軍備を介さないで実現されなければならない。権力者およびその体制と支持者は、功罪の功の部分を強調する。
戦争の支持者というのは最初から支持者なのではない。扇動されるにつれて、支持者自身の得意な分野にある、戦争を肯定する要素に絡み取られていき、見事その支持者となる(大抵、本人は気付いていないか、正当化されている)。また、論理や解釈をねじ曲げたり、事実を捏造、改ざんしたりして、その学問や歴史を戦争に適合させていく。その中で用いられる主要な論理は、差別や偏見であり、このような学問や歴史は呪いのように人々を虐殺や戦争へと導いていく。日本の場合、たとえば、慰安婦否定がそれに当たる。戦争の中で行われた暴力の「事実」を否定し、自分の思想に都合のよい「事実」を肯定するというのは、戦争における暴力を矮小化する行為であり、戦争の肯定である。
非暴力の実践とは何か
なるべく戦火を広げずに、最小限で暴力をもって暴力を制するという思想が大きな前提になっていると、非暴力の実践は無抵抗や怠惰に見えるが、決してそうではない。戦争の反対運動は、とても身近なものである。
暴力をもって暴力に抵抗するということは、熟練の軍事的知識や肉体、そして日々の訓練が必要になる。
男性中心的な組織だと、自らの成果を誇ったり、肉体や地位や名誉で階層性を作ったりするために、組織内でも凄惨な暴力が起こりやすい。能力ない者を晒上げたり、何気ないうっ憤を晴らすための暴力が横行する。暴力は日常的なものとなる。戦争において、暴力は相手国にだけ注ぐわけではなく、むしろその力は内側へと存分に跳ね返るのである。
たいして、非暴力の抵抗では、たとえば病者、高齢者、障害者、妊婦、子どもでも可能である。「暴力をする能力」を用いることもないため、自身の能力で戦果をあげるという規定も、そもそも存在しないのである。自らの成果を誇示する必要はなく、強くなる必要も全くないということは、他者と競い合って自己の地位を意識する必要もないであろう。そのため、階層性は生じにくい。
反戦の意味
当然であるが、反戦は戦争が起こってからどうするかではなく、起こらないようにする、という思想である。もし既に戦争が起こっていたら、非暴力の実践でこれ以上戦争が起こらないようにする。つまり、不戦がもっとも重要である。戦争が起こったらどのように戦えばよいかと考えているうちは、殺人と破壊は容認されている。このとき、人は抽象的な量的存在として見なされる。相手国の兵力にたいして、こちらはどれくらいの兵力があるか?というように。
自国が反戦的であるかを確かめる方法が一つある。とても簡単なもので、「自国が戦争を起こそうとしている中、メディアや市井の言論空間がどのような想定をしているかを想像する」のである。戦争が起こる"前"の非暴力抵抗を想定する者が多ければ反戦的であるが、戦争が起こって"から"の暴力的抵抗を想定する者が多ければ好戦的である。特に、男性の政治家、軍事学者、軍事関係者が、戦争が起こって"から"の想定で市民にたいして諭し始めていたら、戦争は近い。「おいおい、たかが想像ではないか」と思うであろうが、その国が現在において反戦していないのならば、いずれ戦争が起こるであろうことは想像に容易いのである。私が見たところ、日本は現在、戦争を起こせるほどに好戦的だと思われる。