考察や雑記。

自己肯定感と自尊心の違い

そもそもなぜ自己肯定するのか

肯定されている「感」を、自分で意識的に実感しなければならないということは、それだけ社会から否定されることが多い、ということである。社会が個人を否定しているというのに、終始自己だけの問題に留めるのは欺瞞だ。しかるに、自己肯定感は「自分を無理に肯定しなければならない精神状態」であるといえよう。たいして、自尊心は自己にたいする尊重である。

自分を無理に肯定しなければならない過酷な社会、つまり人間にたいして否定的な社会であるのに、無理に肯定させているのは非常に酷である。まずは、差別や暴力など、社会側が否定するのをやめなければならない。社会は差別や暴力を否定する側に立たなければならないのであって、差別や暴力を肯定するために個人を否定してはならない。

「自己肯定とは、そういう社会的なことではないのだ、否定的な自己も肯定的に扱い、発想を転換させることなのだ」というなら、そもそもなぜ発想を転換させなければならないかを、まず問わなければならない。またあるいは、「自己を肯定も否定もしないのが自己肯定なのだ」というなら、もはや自己肯定という言葉を使う必要はない。

自己肯定感の「自己」

自己肯定感の自己は、単に自分自身を指しているように見えて、実は社会が求める理想の自己像だと思われる。自己肯定は、社会側が求める理想の自己像を自己として、肯定する。つまり「理想の自己像」を自己に当てはめて、現実の自己と、観念的な「理想の自己」との二重化の中で内観する。たとえば、理想の自己像である「仕事のできる人」を想像して、日々切磋琢磨する現実の自己がいるとしよう。そうすると、「仕事のできる人」になれるまで、その自己は不完全な不徹底な存在になるのである。もちろん、別になれなくとも何の問題もないのだが、社会の中で自己を否定されているがために、「理想の自己」を過度に意識したり、実力や特技を自己そのものにしようとしたりする。それらはあくまで、実力や特技という自己に関係している能力なのであって、自己そのものではないのは明らかである。本来ならば、理想の自己像は程度の小さい、取るに足らないものであるに違いない。それは、いまよりちょっと勉強ができるだとか、ちょっと気が利くとか、ちょっと運動ができるとか、その程度であろう。

自己の止揚

「では、本来的な自己は何か?」という疑問に答えるならば、それは止揚する自己に他ならない。自己Aを否定する自己Bによって、以前の自己Aは止揚される。この止揚された自己Aは、以前の自己Aでありながら、さらに自己Bでもある。以前の自己Aは自己をなんら知らず、その自明の無知に安住する存在であったが、あるとき自己を批判したり否定したりする自己Bが起こる。そして、止揚された自己Aにおいて、以前の自己Aとそれを否定した自己Bの要素は全て捨てられたわけではなく、大事な必要な部分はすくいあげられる。わかりやすくするとこうなる。愚かな自己A→知識を取り入れたことによってそれを否定する自己B→否定した自己Bをさらに否定する自己Aとなる。

「自己Bは自己Aを否定し、すでに反省しているのだから、そのままでよいのではないか?」と思うかもしれないが、自己Bは自己Aを否定し、反省しただけで、自己Bのままなんら変わっていない。そこから、また以前の自己Aを受け止め、確かに愚かな自己であったことを認めなければならないのである。つまり自己Aを否定できたことに安住している自己Bを、さらに否定しなければならない。

人をあやめた者が自らの罪を自覚して自分を否定したとしても、過去の自分を記憶の彼方に投げ捨てるのならば、なんの反省もできていない。私は生まれ変わったのだ、もう別人なのだというならば、その者は反省できていないであろう。一面的には別人であって、また一面的には別人でなく本人であることを認めなければならない。まず人をあやめたことを強く自覚し、否定する(自己Aを否定する自己B)。次に、そのまま終わらないで、過去の自分の事情を反省的に探って、否定の否定をする(さらに自己Bを否定し、自己Aに戻る)。

完全無欠な自己はありえないので、理論的には自己は無限に止揚されることになる。

自己否定

私は自己否定の方が大切であると思う。自分の思想や考えの道筋に問題があるのではないかと気付き、そうして自分を否定していくのは、自己のためであると同時に他者のためでもあろう。