「社会的ひきこもり」の定義
まずは定義を確認しておかなければならない。少し調べてみてわかったが、定義を正確に把握するのは、なかなか難しい、という印象を受ける。まずは厚生労働省の資料から引用する。
一人で外出していたとしても、社会参加に乏しく、人との交流がなければ、ひきこもりと見なされうるわけである。次に精神科医である斎藤環氏が提唱する、「社会的ひきこもり」の定義を引用する。
1.の「20代後半までに問題化すること」は、現在は削除されている。90年代~00年代までは、不登校からひきこもりになる人が多かった。その当時、報道でもひきこもりが少しずつ取り上げられるようになったと、私も記憶しているが、確かに対象は就学期の若い世代が多かった。つまり、現在よりは若い世代に限る問題だとされていたが、現在は成人後の20代~30代でひきこもりになるケースも対象である。また、若年期にひきこもり、そのまま中高年・高齢になっていくケースや、成人後に就職したがうまくいかずひきこもり、同様に中高年・高齢となっていくケース、いわゆる8050問題(9060問題)が近年は深刻な社会問題として上げられている。つまり、「ひきこもり」は個人的、家庭的問題の範疇を越えた、慢性的な社会問題なのだ。
社会的ひきこもりは、ひきこもりとは区別されている。引用元が平成15年(2003年)と古いが、厚生労働省の「ひきこもり」対応ガイドラインから引用する。
「ひきこもり」が、そのまま「社会的ひきこもり」という意味で使われていることもあるようだ。「ひきこもり」にたいする認知の変遷によって、言葉の使われ方も変わる、ということだろうか。また、「社会的ひきこもり」であっても、徐々に悪化していき、深刻な精神状態になることもある。「ひきこもり」と「社会的ひきこもり」は明確に線引きできるものではない。
社会的ひきこもりは家事をしないのか?
当事者の全員が、家事を全くしないわけではない。おそらく、ひきこもり→自室でひっそりとたたずむ様子→部屋から出ない⇒家事すらしないという簡単な連想から来ているのだろう。これは明らかに偏見である。次のグラフと引用は、ひきこもり当事者の家事参加意欲と、家事時間についてである。時間はともかく、「家事をした」が65.4%と、全体の6割以上が家事をしている。
ただ、見ての通り有効回答者が相当に少ないのが心もとない。当事者の方々にアンケートを取る、ということ自体が難しいのかもしれない。そもそもアンケートを取るには、ある程度可視化され、さらに行政に把握されていなければならないからである。
「家事をしなかった」当事者
※完全に自室にこもりきりだったり、精神的な疾患だったり、深刻な事情があって家事ができない場合は除く。これは強調しておきたい。
さて、数日前、叔父と一緒にプリンを食べていた時の世間話で、30代後半でひきこもっている男性の話がでた。この方は叔父の友人の息子で、数年前に働きだした。ひきこもっていた時期も家事はあまりやっていなかったらしいのだが、働いている時期は一切家事をしていない。数年後には仕事をやめ、またひきこもっている。そして、現在は一切家事をしないという。家事の多くは高齢の母親が担っている。この場合、息子は上記グラフの「家事をしなかった」当事者に入るが、話を聞けば、確実に意志をもって家事をしていない。「しなかった」わけだから、「できない」のではないのである。
内容のわりに叔父は陽気に話す。この話には興味深く聞き入った。なぜ、息子であるこの男性は、一切家事をしないのか…。
愛の労働
これには色々な観点があるだろうが、私が特段思うのはジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタのいう、「愛の労働」である。近代の資本主義社会では、労働力の再生産のために女性があてがわれる。女性は、現在働いている労働者の労働力と、次の世代の労働力(子供)を再生産するための、隠された労働力となるのである。そこで、男性たちは愛をもってして、女性を従属させる。
愛しあった結果、愛の結果が、家事である。愛の結果として女性は家事をやらねばらならない。そして、男性は使用者となり、女性は結婚という雇用契約を結んだ労働者となるのだ。もし、その女性が愛の結果である家事をやらなければ、愛が無いことになるため、男性は憤怒するのである。つまり、労働力を提供しなければ、契約の事項が守られないこととなるわけだが、事項を遵守させるために男性は精神的・肉体的な暴力をはたらいて、女性に遵守を促す。
件の母親と息子は当然夫婦の関係ではないから、厳密には愛の労働には当てはまらない。だが、近代資本主義社会における、性別役割分業を基礎とした「夫婦」となった時に形成される、主従的な関係と重なる部分があるだろう。さらに詳細に聞けば、彼は皿洗いや洗濯など自分の身の回りのことを全て高齢の母親に任せているというのだ。様々な事情があるということを考慮しても、高齢の女性に家事をさせているわけだから、これはまず第一に暴力行為である。この場合、妻ではなく高齢の母親(70近いだろうか)に愛の結果として家事労働を求めたといえよう。「夫婦」間における妻の役割と、母子間における母親の役割は、妻と母親とで違いがあるといえど、女性の役割という点では同じである。
息子は、母親がそそぐ愛の結果としての家事労働を求めているのだ。おそらく、もしこの母親が家事をしなくなれば、なぜ家事をしないのかと母親に問いただしたり、あるいはすねてふさぎ込んだりするだろうと私は推測する。ちょうど、結婚後に子どもが誕生して妻が相手をしてくれないために、子どものようにすねる夫のような様相を呈している(これは珍しい例ではなく、よくある話であることを強調しておく)。子どものケアに忙しい妻は夫までケアをしていられないわけだが、夫は妻を振り向かせるために愛着的な行動をとって気を引くのである。すねる、態度が冷ややかになる、寂しさを訴える、というのもその一つであろう。だが職場だと一転し、真面目で涼しい顔をした仕事人となるのであるが…。
息子の一切家事をしないという態度も、母親にたいする愛着的な行動という点では同様である。継続して家事をやってくれたら愛があり、やってくれなければ愛がない。この母親の「愛」が続く限り、息子は常に子どもである息子であり続け、母親は常に保護者である母親であり続ける。では、父親は何をしているのか。なんのデータもないので、経験則からいわせてもらおう。私が出会ってきた中高年の友人たちは、すべからず家事をやっていなかった。件の家庭の父親も、家事をやらずにテレビの前に鎮座しているに違いない(これは、老人ホームにお邪魔させてもらうとよくわかる。部屋の中心では女性の入居者が楽しくおしゃべりをしているのだが、隅の方では男性たちがじっとテレビを見ているのだ)。
家事をしないとは、一体どういうことなのか
家事をしないというのは、自分で自分の精神や肉体をケアしないことを意味している。ケアを怠れば、自分の身体に何が生じているかがうまく把握できず、身体のどこが機能しなくなっているかが見落とされる。人に自分の家事をさせるというのは、自分の精神や肉体を他人に委ね、自分の身体への責任を怠っているに等しい。人にたいしても自分にたいしても全く無責任であり、稚拙な態度であるといわざるを得ない。