結婚による関係の変化
親密な関係にあった両者が結婚をすると、突如としてその関係から夫婦関係に入る。親密な関係の延長線上に結婚があるのではなく、到達として結婚があるのだ。その上、結婚をすると相手の家族達と、これまた突如として身内関係に入る。突然「身内」という人間関係が急激に広がるのである。
結婚制度によって、結婚をしていない関係は未到達の生半可な関係、あるいは正式ではない関係として見做されてしまう。また独身の場合は、ただ一人で暮らしているだけで「何か深い訳があるのではないか」と勘繰られるほどに、「人格未熟者」たる烙印を押されてしまうことがある。ただ、政府による率先した「少子化政策」のおかげで、独身に対する偏見は皮肉にも着実に緩和されてきているように私は思う。独身者の数がより増えてきて、みな以前にも増して結婚ができなくなったし、しなくもなったのだ。つまり、人数が増えれば、それだけ独身としての生き方も増えるわけである。たとえば、趣味に没頭したり、地域活動に参加したり、何かの研究を独自にしたり。
家制度によって生まれた内縁の夫婦
70代・80年代あたりから徐々によく聞かれるようになっていった「内縁」や「事実婚」や「シングルズ」といった言葉には、非結婚状態という意味合いが含まれている。これらは、いわば結婚の対語だ。このような言葉が存在する背景には、まず結婚ありきの関係が前提にされている。
鹿野政直 著 「現代日本女性史 フェミニズムを軸として」から引用。
当時の結婚は、女性をいわば面接し、家の一員として相応しいかを見定めるものであった。その条件とは、主に出産機能と貞潔な従属意識である。なんとか正式な「契約」の目途が立つと、女性は戸主という監督者に常時監督されながら、妻という役割として生きていくことになる。ここに個人はなく、それよりも役割が期待される。すなわち人格性よりも機能なのである。
そして、権限を持つ戸主に対しては、主人と呼ばねばならない。こうして支配と従属の関係が見事に成立する。この関係を維持させ、また賦活するのは当然この家「制度」である。当時(1920年代あたり)は内縁の夫婦も多かった。引用の通り、婚姻制度は、用意周到にして煩雑な段階を踏まねばならない。つまり、自然発生的に婚姻制度からあぶれたものが事実婚である、といってもいいだろう。
事実婚自体は1920年代から既にあった。「制度的な結婚に対する異議」という意識が当時からあったかはわからないが、婚姻制度という線引きによって、中央に線を引くと左と右が発生するように、パートナーとのあり方に「事実婚」・「法律婚」という相対する価値観が発生したのだ。
戸籍制度への疑問
ある両者が事実婚を選ぶとき、何をもって「選ぶ」のか。それとも、選ばざるを得なかったのか。理由は様々であろうが、まず持って、国家の介入に対する疑念と反発がある。
※引用にある"女性はクリスマスケーキ"というのは、「25」日を過ぎるとその価値がなくなってしまうクリスマスケーキに、女性を見立てた差別的な流行語である。この25という数字は年齢を示している。トレンディードラマが流行っていた頃に生まれた言葉だ。
制度による差別
たとえば、戸籍制度による婚外子差別を見てみる。戸籍係として勤務していた戸籍研究者の佐藤文明は、このような経験をする。
法律上婚姻の関係になかった時に生まれた子供は、ただそれだけで、婚外子とされる。この言葉は、「結婚後か、それとも結婚前か」と線を引く、婚姻制度に依って立つ。制度による線引きによって、婚外子・婚内子という概念が生じるのだ。私は、婚姻制度自体には別段反対はしないのであるが、制度によって生じる差別、制度によって賦活される差別は必ず是正されなければいけない、という立場である。