考察や雑記。

芸術 「Vtuber」はどのような表現なのか その2

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1.Vtuberの多くは、作者と演者、どちらもこなす

Vtuberの「中の人」の多くは作者と演者を兼任しています。作者としてキャラクターや世界観などの設定を考え、そしてこの設定を元に演者として演じます。

2.Vtuberの着ぐるみ化

いわゆる「中の人」がキャラクターを演じている間は、キャラクターの設定・世界観が、作者の言動と一致しています。ですが、配信中のアクシデントなど、何かのきっかけで中の人が全く演じていない状態になると、不一致によってVtuberの着ぐるみ化が起こります。ただ着ぐるみを着ているだけになります。

遊園地やテーマパークにおけるバイトでウサギの着ぐるみを着た人がおられますが、中の人が着ぐるみを着たままタバコを吸ったり眠りこけたりしている状況と似ています。あるいは、ウルトラマンと怪獣の戦闘シーンで、怪獣の演者が怪獣を演じていない状態を想像してみるとわかりやすいと思います。この場合、怪獣の着ぐるみを着た人がつっ立っているだけになるわけですが、これと同じようなことがVtuberでも起こります。演者(中の人)のほうが設定されたキャラクターよりも、前面に出てきている状態です。

3.Vtuberの着ぐるみ化の常態

アクシデントが発生したときなど、着ぐるみ化が一時的であれば、一時的なメタ的場面として理解されるでしょうし、これもまた鑑賞者としては面白い場面かもしれません。ただ、これが常態化していると、中の人が常にVtuberという着ぐるみを着ていることになります。中の人は演じておらず、つまり表現をしていないのです。

着ぐるみ化の常態化は、設定の形骸化も同時に意味しています。なぜなら、そのキャラクター設定やアバターにまつわる設定は、中の人が表現する限りにおいて中の人と一致するからです。中の人が表現をしていない場合は、キャラクター設定などが外され、設定と演者が分離・独立しています。

常に中の人が内面を出していると、そのVtuberのキャラクター性を見ているというよりも、演者である中の人自体を見ていることになるので、内実は普通の実況とあまり変わらない状態になっています。

4.全てのVtuberが演じているわけではない

Vtuberにも様々な種類が存在しますが、全てのVtuberが表現しているわけではありません。むしろ、全体的に見れば表現していないVtuberのほうが多いかもしれません。「素の状態」で活動しているVtuberは表現はしておらず、中の人はたとえ設定の作者ではあっても演者ではない、といえるかもしれません。

この場合、設定が初めから形骸化しているか、あるいはそれに近いです。また、設定自体が希薄な場合もあるでしょう。これは、素材による制約を自身に設けないためだともいえます。

5.演じられるキャラクター側からすれば、作者の空想の世界は現実の世界

設定されたキャラクターの世界観、つまり中の人が設定した空想の世界は、この場合「現実の世界」として扱われています。演じられるキャラクター側からすれば、作者の空想の世界は現実です。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の空想の世界も、主人公の猫から見れば現実です。

たとえばアニメのキャラクターは、設定として自分の世界は唯一であると思っていますから、他に自分の住む世界とはまた異なった世界があるとは思いません。空想の世界の中のキャラクターが、「こんな世界ってあるのかな?」と空想的な想像をしている場合、これは空想の世界における空想的な想像活動になります。

6.空想の世界と現実の世界との二重化

Vtuberは空想の世界から現実の世界に、配信で話したり動いたりして鑑賞者に語りかけていますから、空想の世界と現実の世界とが二重化しています。空想の世界として設定された舞台が、まさにリアルタイムの現実の世界でもあるため、二重化が起こるのです。リアルタイムの現実の世界が表現の素材なので、このようなことが起こります。

演じられるキャラクター側は、設定として「自分の世界のみ」の把握であるのに対して、追体験する鑑賞者は空想の世界と現実の世界の二重化まで、一応把握しています。もちろん、それを演じているのも中の人自身ですから、この二重化の関係を中の人も把握しています。設定・世界観をより重視する中の人ならば、メタ的な見方をせずに「自分の世界のみしか把握できていないキャラクター」というところまで演じているでしょう。

7.鑑賞者の立場 フィクションとして鑑賞する

ウルトラマン」はフィクションであって現実に存在しないものであっても、鑑賞者はそれを暗黙の了解として戦闘シーンを楽しみます。なので、鑑賞者は怪獣が本当に存在しているものとして戦闘を鑑賞しているわけではありませんが、それを承知の上で楽しみます。

鑑賞者はフィクションと了解して鑑賞するため、中の人がちゃんと演じてもらわないと、鑑賞者はフィクションの世界観に没入できません。というのも、鑑賞の際に観念的に空想の世界に入り込んで物語を楽しみ、鑑賞が終わったら現実の世界に戻ってくるからです。もちろん、空想の世界に没入しているからといって、自分が現実から消滅したわけではありません。

具体例を出しますと、映画で物語の世界観を追体験するとします。追体験とは、作者の空想の世界を、一時的に現実に存在するものとして認め、観念的に体験することをいいます。そして、映画が終わったら、物語の世界観は現実には存在しない空想の世界として考えます。つまり、追体験をやめたのです。

8.リアルタイムで追体験

ここまで何度も「空想」と言っていますが、中の人の頭の中にある空想の世界が、現実にそのまま現れていると考えるのではなく、中の人が物質的に表現しているものを、鑑賞者がリアルタイムで追体験していると考えてください。

Vtuberの配信は、まさにリアルタイムで物語が作り出されていくので、非常に臨場性があります。また、鑑賞者側もコメントで参加し、物語に介入できうるところも重要です。鑑賞者は鑑賞だけに終わるのではなく、モブ(mob:群衆)的キャラクターにもなるので、鑑賞者は演じながら同時に鑑賞もします。鑑賞という、あくまで受動的な立場であっても、いわゆるロールプレイを鑑賞者もしているのです。

芸術の内容2

9.コンテンツの発展

現在、Vtuberとして演じるということはそこまで重要ではなくなりました。そもそもVtuberはエンターテイメントの延長線上にあるということ、そもそも演じることが難しいからです。

そこまで演じなくとも、鑑賞者がキャラクター性を付随(ふずい)させていくことがあります。あくまで私が見たところですが、ファンが増えてそのVtuberに関する感想や批評、二次創作などがたくさん作られていくと、コンテンツとして発展しやすいようです。ですので、動画作成・配信活動を精力的に行いながら、SNSや広告を利用して世間に広く認知させ、鑑賞者に面白さや魅力を発見してもらうのがよいのかもしれません。

(これもあくまで私が見たところですが……)上記のコンテンツの面から顧みると、ファンがある程度増えないとVtuberとしての人気はでにくいのではないでしょうか。なぜなら、自分で自分を面白い存在としてプロデュースするのは限界があるからです。ある程度ファンがついて、そのファングループの中でもてはやされたり、他のコンテンツと関連しないと難しいのかもしれません。

ファンの二次創作を、今度は中の人が鑑賞して、それをもとに表現していく場合もあるでしょう。たとえば、イラストの作者は一旦描画をやめて鑑賞をし、出来栄えを確かめたりしますが、中の人は終始作る立場だけに留まるのではなく、鑑賞者にもなります。オーケストラの作曲家でも、響きを確かめるために、本番の前に何回か楽団に演奏してもらったりますが、その際、作曲家は鑑賞者になっています。

10.図で確認してみよう

Vtuberの表現過程

画像左上。作者(演者)となっていますが、これは作者が演者もこなすことが多いため、このように表記しました。実際は、作者と演者が必ずしも一致するわけではありません。

画像中央。描き切れませんでしたが、鑑賞者側の表現には「切り抜き」も含まれています。

 

参考文献:三浦つとむ著. 芸術とはどういうものか. 至誠堂新書9, 1965, 226p.