考察や雑記。

芸術 「Vtuber」はどのような表現なのか その1

備忘録。

1.素材の形式(物の形式)

芸術における素材というのは、ここでは生け花の「花」や、鉄で製作された彫刻の「鉄」や、色んな人柄を演じる落語家の「からだ」など、表現する際に扱われる現実の対象のことをいいます。形式とは、ここでは物(もの)や事柄として実際に現れているあり方のことをいいます。難しい意味合いはありません。

花としてのあり方、鉄としてのあり方、からだとしてのあり方はそれぞれ違いますが、これらは全て物であり、物質的です。

2.表現の形式

鉄の彫刻の場合は、素材である鉄を曲げたり凹ませたりして、作者が精神的に想像する作品のあり方に近づけていきます。なので、この鉄は素材の形式であると同時に表現の形式でもあります。「柔らかい蠟に指さきを押しつけると、そこに指紋がのこるけれども、この指紋は一面から見れば指の持つかたちをうつしかえたものであり、同時に他面から見れば蠟そのもののかたちでもある。」(三浦, 1965, p.77)、つまり、指の跡は作者が物質的に表現した表現の形式であり、それと同時にろうそくという素材の形式でもある、ということです。

表現の形式であっても、現実の物質的な素材の形式から切り離されているわけではありません。また、表現する前からその素材は現実に存在しています。

3.Vtuberの素材の形式

Vtuberの素材は、「人間のからだ」・「アバター」・「キャラクター性」などでしょう他にもたくさんあると思いますが、この三つが特に目につきやすい部分だと思います。

※キャラクター性をパーソナリティと表現してもよいかもしれませんが、パーソナリティでは心理学の術語としての意味合いがでてきてしまうので、キャラクター性にしました。ここでいうキャラクター性は、皆さんが普段思うような人格性と同義です。難しい意味合いはありません。

作者がこれらを用いて演じている状態が「Vtuber」という表現の形式です。作者が自身のからだを用い、そしてアバターという着ぐるみを着て、一定の、あるキャラクター性を演じています。これも素材の形式であり、同時に表現の形式でもあります。

4.素材による一定の制約

作者がリンゴを紙の上にえんぴつで描くとき、それは白黒でしか表現(物質化)されません。この場合は、素材に紙とえんぴつを使っているので、作者の想像の中のリンゴがいくら多彩でみずみずしいものであっても、表現の際には紙の上で白黒になります。同様に、Vtuberも素材によって制約されていきます。では、それぞれの素材と、それによる制約を見ていきましょう。

アバター

Vtuberを鑑賞する際、猫耳の可愛らしい人や、服がきらきらとしたおしゃれな人がまず目に入ります。また、「可愛い」や「おしゃれ」や「かっこいい」といった意味合いやカテゴリー性なども、アバターには表現されています。

屈強なアバターがブツブツとつぶやくような喋り方をするわけにもいきません。可愛らしいアバターがドスの効いた声を出すわけにもいきません。もちろんこのような振舞いがあってもよいですし、これも素晴らしい個性の一つですが、なるべく鑑賞者に「違和感」を与えないように、演じる際は気をつけなければなりません。

キャラクター性

キャラクター性には優しい性格や荒っぽい性格など、人間の一定な傾向が反映されています。たとえば、いつも図書館で勉強をしていて勤勉ならば「真面目」で、いつも人に依存しがちならば「寂しがり屋」で、いつも人に当たり散らしているならば「怒りっぽい」などと、客観的に判断されます。

穏やかなキャラクターとして設定されたVtuberがいつも憤怒しているわけにも、クールなキャラクターとして設定されたVtuberがいつもおちゃらけているわけにもいきませんから、キャラクター性による制約があることがわかります。

人間のからだと思想

いわゆる「中の人」は自身のからだを用いた演者です。見たところ、もはや中の人自身はアバターによって全く見えなくなっていますが、声色や口調はそのままです。

Vtuberは色々なアバターを用いて活動をすることがありますが、落語家が演じる場合の逆と考えるとわかりやすいと思います。落語家は、落語家がそのからだ一つで様々な人物を演じますが、Vtuberは様々なアバターで一つのキャラクター性を演じます。ただし、アバターを変えた際に、そのアバターが今までのあり方と大きく異なる場合は、鑑賞者が「これは違う」と否定することもあるでしょう。

また、本人の思想もVtuberとしてそのまま反映されます。たとえば、男性が女性のアバターで演じ、声をボイスチェンジャーで変えたとしても、口調や仕草は男性側から見た「客体的な女性像」がもとになって演じられることが多いです。つまり、中の人が全く意図していなくても、中の人自身の思想に依りながら物事を判断することになります。たとえば中の人の演じるものが古代のキャラクターであっても、当然現代の思想を持って談話することになります。

演じることによる浸透

中の人が優しい性格の可愛らしいキャラクターを演じていると、演者自身もそのような人間性になることがあります。たとえば日頃の仕草が女性的な仕草になったり、感性も部分的に女性的になることがあります(本当にあります)。映画の俳優が役に入り込んでしまって抜け出せなくなることがありますが、これと同じです。

演じているキャラクターが演者である中の人に浸透するのは、演じているときは演じていること自体を特別意識しないからであり、この意識しないときが継続的であればあるほど、現実の中の人に浸透していくでしょう。意識が一々「演じていること」を検閲しなくなり、中の人の自己に浸透していきます。

 

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三浦つとむ、1965年、『芸術とはどういうものか』、至誠堂新書。