考察や雑記。

ミソジニーとは何か

呉座氏は、ベストセラー「応仁の乱」で知られる日本中世史が専門の歴史学者。NHKは23日、呉座氏が来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証の担当を降板すると発表した。(河野通高) 引用:朝日新聞

呉座勇一氏はツイッター内で、文学者である北村紗衣氏を習慣的に中傷していた。彼は自身のアカウントを鍵アカウントにして「複数人で」お互いに賦活し合いながら、北村紗衣氏を中傷していた。その輪には御田寺圭氏(白饅頭氏)という方がおられた。ネットでは「白饅頭」名義でよく知られているらしく、機械やネットに疎い私でも時おり目にする。

本稿では、私の過去のことも語ることにする。読者にとって、私の話など至極どうでもよいのであるが、私の過去の考え方や思想は様々な意味で教訓的だと思うので、付随的に語っていこう。

ホモソーシャル」 ミソジニーで人と繋がる

ここでいうミソジニーの定義なのだが、二つある。一つは女性に対する嫌悪や憎悪、いま一つは男性、または男性社会に従わない「女」への制裁的な感情である。これについては、後述していく。(1)

また、ここでいうホモソーシャルの定義も記しておく。ある属性の権力を保持するために、同性間で相互に監視し合う恒久的な関係性・社会性のことをホモソーシャルとしよう。乱暴な定義だが、狭義からは外れていないはずだ。「ホモソーシャル」は、本来ホモフォビアミソジニーが土台になった排他的な関係性のことをいう。だから、ただ単に男性の集団性や、男性同士の関係性をいうのではない。また、ホモソーシャルの「ホモ」は同性という意味だ。

「同性間で相互に監視し合う恒久的な関係性・社会性」と言ったが、繋がっているように見える絆は、実はお互いに監視する視線性である。「この者は、私たちに適した人間か?」どうかを、男性性を拠り所にして考えるのである。男性性というのは、男らしさのことだ。これについても後述していく。(2)

さて、「複数人で」というのが重要。呉座氏はミソジニーで人と繋がっていたのだと思う。私も昔この繋がりの中にいた。実に楽しかった。女性への嫌悪を表明すると、皆が賛同・同情してくれるのだ。そこでは露骨な下ネタ、女性差別、同性愛差別、ジェンダー尊重社会への忌避、誹謗中傷、人権否定などが話題になったりする。だが、実際に人と繋がっている感じが全くしなかったのはなぜなのだろうか。

それは、差別を媒介に人と繋がっているからである。この場合は、女性差別だ。何かの折に限界を感じて自分の弱みや悩みを出したいというとき、率直に自分の弱みを出すのでは、張りぼての身体的・精神的な強靭性を拠り所とする男らしさ(2)から外れてしまうし、何よりも立場が女性と近くなってしまう。だから、差別を媒介にして、これを踏み台にして弱みを語る。女性差別がなければ、内心を吐露できないのである。共感できないのである。

女の腐ったようなやつ

ホモソーシャルの階級の「外」には、女性や障害者や同性愛者がいる。自覚していなくとも、ホモソーシャルに属する者たちは、この外に追いやられたり、同一視されたりするのが、たまらなく嫌だ。特に女性と同一視されるのが嫌だ。ちなみに、無暗に階級という言葉は使わないようにしているが、属していた私にははっきりと階級性が見えた。このことはまた別に記事にしよう。

いまはあまり聞かないが、この輪の中で「おまえは女の腐ったようなやつだ」というような言葉を浴びせられると、酷く落胆する。「俺は『女性』のような人間ではない。俺は冴えない人間(男)だが、女性にだけは一緒にされたくはない。それだけはごめんだ」と。これは、昔私が実際に抱いていた感情だ。

だからこそ、女性を支配したいし、女性からケアもされたいのである。ケアをするのが女性の役割であり、また、自然の摂理であるのに、なぜ私にはしないのか。こうして女性に憎悪を抱く。ミソジニーな思想の下では、男性は女性にケアされる、奉仕される存在であることが大前提になっていることがわかるだろう。そして憎悪は発展する。「ケアをしない、奉仕をしない女性には『制裁』が必要だ」と。これこそがまさにミソジニーではないだろうか。(1)また、女性でもこのような感情は抱くが、圧倒的に男性の方が多い。それでも、属性だけで物事を見ないように注意したい。

女性になりたい者もいる。この「女性になりたい」というのは、女性のように優遇されたい、保護されたいということだ。ミソジニーな思想を持つそのわけは、一つにこの者には女性が社会で優遇されているように見えている。女性への認識のデフォルトが「稼げる女性」なのだ。これが、極めて普遍的に見えている。優遇されているのだから、男性への奉仕をするべきなのだと、そう思う。

説明だけではわかりにくいので、実際に言葉に表してみよう。「まぁ自分より少し下…あるいは同等か、またあるいはそれ以上に稼いでいるのに、その上優遇や保護も受けている。俺は何の保護も支援も受けられないのに。だから女性は俺に奉仕するべきだ。一種の分配なんだ。」と憤怒する。これも、昔私が実際に抱いていた感情だ。

しかも、またそれなのに、彼女たちは世間に対して一々声を上げて抗議してくる。図々しく、厚顔無恥な女たちをこう呼ぼう。「ババア」「フェミ」「フェミさん」「まんさん」。こうやって、主にネットの中で蔑称し差別を共有することによって、人と繋がることができるのだ。蔑称を用いる、ということは、犬笛であり、ヘイトクライムの合図である。

公の場で実際にやれば、非難されるかもしれない。といっても、ネットで繋がって共同体をつくり、そうやって「市民権」を得ていけば、もう隠れてやる必要はないのだ。次は、まさにリアルで差別をする。俺たちで鉄槌を下すのだ、と。厚顔無恥な女たちが苦しめば苦しむほど世界もよくなるし、なんといっても自分にとって心地がいい。もちろん、ネットも現実の一部なのだが。

私は、被害者である北村紗衣氏のツイッターを見てこう思った。「疲弊しているように思う。ツイッターを一旦やめたほうがよいのではないか」、と。だが、実際にこのことを本人に伝えてしまえば、それも二次加害だろうと思う。なぜなら、これを言われた本人は黙るしかなくなってしまうからだ。言論の場を奪いかねない。だから、私はこれから数日間は攻撃行為を繰り返すアカウントの通報作業に徹したいと思う。まずは加害者への制止、批判が必要だ。

「冷笑」 人権が煩わしい

中傷に加担、また扇動していた御田寺氏は、この件に対して謝罪はない。時代考証役を降板した呉座氏には、それまで親交的に接していたにも関わらず、あっけらかんとした反応であった。冷酷に見えるが、それは当然であり、この場合、彼は善悪に則って動いているわけではないからだ。

もちろん、ただの推測であるが、彼は「自分にとって利益になるか否か」で人を見ているような気がした。それも流れ作業的に、定量的に、日常的にそうやって人を見る。推測で言っておきながら、自分と結び付けるのは本人には本当に失礼だが、これも昔と私と重なる気がした。これより次の見出しまでは、昔の私の話になる。そして、部分的にはいまも現在進行形だろう。

善悪とか倫理とか人権とか、煩わしいのだ。あったとしても、自分にとって都合がよい上に、また自分にとって共感できるものでよい。最低限の希薄なものでよい。自分に関係のない人権思想など、自分に関係がないうちは無視してもよい。それに、経済も、組織も、人間関係も、国家も、その方がよく回ってくれるはずなのだと。そして、ここには暗黙にうちに「私に都合のいいように回ってくれればよい」という思いがあったりもする。もちろん、こんな正直にいえば当然非難されるだろうから、もっと婉曲に巧みに主張する。

婉曲に巧みに主張する技能が十分に身につけば、もしかしたらこれで食っていけるのではないか?とも思ったりする。なぜなら、ホモソーシャルにおける「仲間」をうまく扇動できるからである。ホモソーシャルの強固さをよく熟知しているのだ。日本のメディアは、そもそも男性中心主義なのであるから、その中ではうまくやっていけるに違いない。

扇動して、そのついでに自分の懐を肥やす。思いのほか稼げるのではないか。稼げなくとも、「仲間」ができる。体制や社会性より、特定の対象(この場合はフェミニズムジェンダー)に焦点を当てて扇動、批判すればよいのではないか。その際に、現在の体制や社会性の理論を付随させておけばいい。これならちょっとした知識だけでも独自に論理を展開できる。別にそこまで中身はなくてもよい。それでも、格好として多少は現体制の批判をしておかないといけないだろうから、何でもいいから片手間にやっておこう。

憎悪や差別欲を利用し、戦略的に何かを対象にして攻撃したい際、自分の流儀として絶対に自分では手を下さないようにしよう。必ず他者を媒介にして間接的にやろう。すぐに尻尾を切って、逃げられるようにするためだ。慣れれば、こんなことは直観的にできるし、あるいは自然にそうなっていく。では、なぜ攻撃するのか?まず一番には、攻撃をすると絆が強まるからであり、次に個人的に日々が充実するからだ。

ある程度自分というブランドに人気が出れば、仲間なんていうのはいくらでも作れるから、仲間の誰かから怨恨を持たれ疎まれたとしても、気にすることはない。私に適する者が仲間であり、それ以外は赤の他人である。私を裏切った者、また私から裏切った者も赤の他人である。私はこのような考え・思想の人を何人も見てきたし、稼ごうとはしなかったが、自分もまさしくそんな人間であった。

「冷笑」というのは、どこまでいっても態度であると思う。この態度をとっていると、自分が怜悧な人間に思えてくる。中立的で、物事の分別をわかっているような人間にも思えてくる。不良でも、単なるオタクでもない、格好のいい人間に思えてくるのだ。ほのかに生きている実感を覚える。

話がずれてしまうが、おそらく御田寺氏は経済状況にあまり余裕がないのではないか。それか、収支がつりあっていないのではないだろうか。これも根拠のない私の単なる憶測であるが、何かこう、その背後に切羽詰まったものを感じてならない。

「女の子虐め」の延長線上に

呉座氏の件に関して、小中学生時代での「女の子虐め」を連想した。今から何十年も前の話になるが、学校生活の中で女の子(女性)に対する虐めを私は何度も目撃していた。私の学校では日常的な光景であった。そして、私はこれが問題のあることだとは微塵にも思わなかった。傍観し、また加担もしていたのである。

スカートめくり、執拗なつきまとい、覗き、リコーダー舐め、執拗な意味のない質問責めなどの「女の子虐め」…つまり性暴力の際、加害者は何を思ってやっているのか。身もふたもない稚拙な言い方になるが、一面的には楽しいのである。インスタントに心が満たされて、充実感があるのである。良い娯楽なのだ。

よくよく思い出してみれば、これら性加害行為に対して、子供のころの私は悪い行為だと一応認識していた。だが、僕たち男の子(男性)が加害をするのは仕方のないことだ、とも思っていた。そして、外部機関から何の教育もなく、本人にしても何ら反省がないまま進めば、そのまま「女の子虐め」は「女性への暴力」となる。

擁護する仲間が多ければ、加害行為への糾弾を気にする必要はない。だからこそ、ホモソーシャル固執する。善悪や倫理的な認識を持っていながら、それをたやすく無視できるだけの、踏み倒せるだけの、条件を持っているのだ。

ことさらに思うのは、特に善悪についてである。その者が、善悪の規範を自分に該当させて考えるうちは、まだ可能性がある。だけれども、その者が善悪の規範を「所詮」単なる一つの知識や情報として認識しはじめると、途端に善悪の規範は効力を失うのである。(善悪の規範のことを道徳という。)

なぜ加害をするのか

呉座氏はツイッター

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と語っているが、呉座氏の場合、偏見意識を表に出さないよう我慢していたから、日頃からこのような欲求、つまり「差別したい欲求」があったのだろうと思われる。そこで、ストレスと加害行為の因果関係について、私は少し考えてみた。もちろん専門的な知識は持っていないので、流し読んでほしいと思う。

ストレスは契機の一つであると思う。まずストレスに差別意識などがセットになり、これを契機に安全にストレスの捌ける環境を設けたり、見つけたりする。次に対象を選び出し、ここではじめて契機から暴力や中傷などの加害行為へと発展する。その大半は無暗にやっているわけではなく、つぶさに、冷静に相手を選んでいる。そのため当然、ストレスを強く感じている者、その全員が性加害をするわけではないはずだ。

このことにおいて、権力構造は重要な条件になる。自分が加害しやすい社会的な立場にあり、確実に加害を実行できる環境があれば大変都合がよい。その上、隠蔽と擁護の期待できる環境ならば、なおさらよい。日本の場合は、「日本」という国がその環境である。

選ばれる加害対象は様々であり、社会的に弱い立場だと見なされている者や「以前から加害行為を受けている対象」が望ましい。後者は、加害できる土壌が既にできあがっているから、加害のための障壁が少なく、やりやすいのである。そして、集団性を帯びるにつれて加害行為の実行はより確実的になっていく。

たとえば電車内での痴漢ならば、何かしらの精神的負荷を契機に、電車内で対象を選び、加害する。決して性欲だけで加害に及ぶのではなく、むしろそれよりも、精神的負荷を処理したいとき、確実に、また即座に手を出せる対象を狙うのではないかと思う。そして、この「狙うこと」自体も心地よく、自分の中から何か発散されるものがあるのだ。

ドメスティック・バイオレンス なぜ暴力をふるい続けるのか

自分が自分であるために、相手に対して加害をするパターンは多いのではないだろうか。たとえばDVにおいて暴力をふるう男性が、妻から離婚を切り出されると強く拒むケースは多いが、なぜなら自分より下位の妻がいなくなってしまうからだ。彼は、何でもよいから相対的に上位に立ちたいのである。ある一方の対象が、下位に見なされているとき、初めて自分は上位として、「自分」として存在できる。そう見なすのは、暴力をふるって服従させる自分だ。だからこそ、彼はいつまでも暴力を振るい続けるのだろうと思う。