考察や雑記。

空間の哲学 部屋に物が散らかるのは悪?

空間

私がいる部屋には、あまり物はありません。あまり物がないからといって、殺風景で空虚なわけでわけではなく、部屋の中には空間が充満しています。空間やその他の物質は、常に相克にあります。

ここでいう、部屋の中にある空間とは何でしょうか。それは肉眼で捉えられない「無」として有ります。無といっても、もちろん空気などの物質がありますが、空気のうちわけである窒素や酸素などのより小さい物質は肉眼で捉えるのが難しい。

なので、人間の認識においては何もないように思えるため、無は肉眼で捉えられる物質(家具など)と相対化されます。そして、人間の思考によって対象化されて、無として表現されます。ここではそれを「空間」と呼びましょう。

空間の性質

私も部屋の一部なので、他の物質群と相対化されて、せめぎ合っています。そして、とりわけその部屋を占めているのが空間になります。

なぜかというと、おそらく家具やかばんなどはその形によって、それゆえに制限されているだろうと考えられるからです。その形以上には広がることができないので、常に空間の配下にあり、圧倒的な空間は他の物質に密着して空間たりえようとする。空間が広がるのは、空間の一つの性質です。

これらに対して、人間は広がることはできませんが、独自に移動することができます。そこで、この空間から逃れるために部屋から出てみるのですが、外も空間が充満している。空間は地続きに存在していきます。

空間への対抗

私は常に空間と密着して存在することになります。そのため、なるべく空間を意識しないで存在したいので、たとえば部屋の中に物をたくさん置いて、物と空間を拮抗させてみるのです。

物はそれぞれ個体であり、それゆえに数の合体として存在することができ、対して空間は、可変的・流動的であり、さらに物と同じように他の空間と合体することができますから、やはり空間の方が優勢です。部屋のドアを開けると他の部屋と繋がって空間が合体するのです。

人間の私にとっては、物も空間も私とは異なる物質です。なので、部屋の中に物をたくさん置いてみても、結局は私とは異なる物質が増えるだけですが、物と空間を拮抗させることによって、圧倒的な空間の圧力がいくらか軽減されるでしょう。

存在するという性質

物も空間も私とは異なる物質といっても、私も同じように他の物質と同時に存在しているので、「存在する」という性質としては同じになります。  

自死

存在しないように自死をすれば、完全に逃れることができるかもしれません。これは非存在に欲望していることになります。

とても困るのが、たとえ死んだとしても、天国なる世界に行ったり、幽霊なる存在になったりすると、結局存在することになるので、たとえ「死後」でも空間と拮抗することになる可能性があります。

この「死後」は、もはや一つの、単なる通過的な表現として見る必要があるでしょう。死後だといっても、生きているのです。

たとえば、本当に天国なる世界が観測されると、現実の世界と天国の世界が存在することになり、次元としては分けれていても、人間の認識においては地続きになります。ということは、もしこの二つの世界にあまり差異がなかったら、A地点からB地点に移動するという淡白なものにもなりえます。存在しない方がかえって価値を高めるともいえましょう。

さて、全くに実証されていない不確定なものを可能性があると言うのはまるで詭弁ですが、空間に逃れることにおいては、絶対的なる確実性が必要です。

それならば、存在するうちに空間から逃れたいものです。

空間から完全に逃れるには

さっそくで申し訳ないですが、残念ながらこれは不可能かもしれません。そこで、想像の中で私以外の物質を全て排除してみます。

そうしますと、ありえないですが、有に内包されていない、全く次元も物質もエネルギーも含んでいない、あらゆる諸可能性の余地すらない、終わりもなければ始まりもない… 

まず私が存在します。「点」

この形而上的な私は全く動けないですが、もちろん人間の知覚能力は持っています。では、何を知覚するのか。絶対無なるもの知覚するのか。

これはとにかく、全くにわからない。

知覚に対して知覚し、知覚世界ともいうべき広大な海へ没入するのか?(何の知覚に対する知覚かは、全く見当がつかないが)そうならば、空間の問題とはまた別の、「知覚を止める」という問題が必ず出てくるでしょう。必然として現れる、存在への疑念です。