考察や雑記。

悩みの性質

 ただ悩んでいるだけで、「悩む」という行為をしているだけで、別にそれが「悩み」だとはいえないことがよくあります。悩んでいるときは感覚として気持ちのよくないものであるから、それを悩みだと勘違いしているのかもしれません。

悩みは常にその人の意識にまとわりついてきますから、日常生活の中で事あるごとにその悩みが想起されます。車を運転していても、お皿を洗っていても、パソコンを使っていても、知覚は対象を一応は捉えながらも、意識は悩みの方にいったりします。

たとえば「悩みの克服・解決」や「悩みを悪化させる因子を避ける選択」などが主要な行動になると、その人の自己決定は悩みに内包されているともいえます。

ということは、さらにいえば自分は悩みに内包されていることになって、「いつもその悩みと葛藤していることこそが、まさに私である」と、悩みに対して悩むこと自体が自分(自己)の存在を決定付けることにもなります。

連関性

悩みは色々な事物と連関して形成されていきます。その悩みがその悩みだけで独立して存在することは、なかなかある話ではありません。

悩みはAやBやCなど、複数の事物によって構成されているので、これらの 消滅や生成によって悩みの性質は変ります。それで悩みが改善されればよいですが、それによってまた別の悩みが発生したり、寧ろよりいっそう悩みが悪化したりします。

たとえば、あなたは「人間関係」に悩みます。(悩みの自覚と発生)

職場の同僚(他者)と関係が悪いので、(公的な場であり、複数の他者が存在する「職場」という悩みの要素Aの発生)

仕事をやめてみましたが、次の職場でも人間関係が悪くなり、「いや自分に原因があるのではないか?」と自問して、(自分に問題があるのではないか?という悩みの要素Bの発生)

巷の書籍などで自己の啓発に務めてみましたが、「いや自己の啓発にも限界があるのではないか?」と開き直って、悩みの原因を他者に求めて、他者のせいにしてみても、(悩みの要素Bの消滅)

結局、事はよりいっそう悪くなり、人間関係は悪くなる一方でした。それでも賃金を得るためには仕事を続けなければなりません。(要素Bの消滅による、他者に責任転嫁しても他者から全く尊重されないという悩みの要素Cの発生)

さて過程を見ると、要素の変化によって悩みの性質が変わっています。変わってはいますが、人間関係という悩みであることは間違いありません。

ここに、またさらに「人間関係の悪化による、身体症状の悪化」が発生すると、慢性的な体調不良という悩みが出てきます。性質の変化によって、また別の悩みが発生しました。

悩みは複数存在することが普通であり、そして別々の悩みが相互に関係し合うのです。これによって、それぞれ悩みの性質は変わってきます。

悩んでいるときの感覚はなぜ気持ちよくないのか

悩んでいるときは、未来に「悩んでいない自分」がいることになりますから、現在の自分は満たされていない欠如態になります。

しかも切実に悩んでいるわけですから、その欠如の意識は、他の事物に関する意識よりもはっきりしています。目下…自分は今まさに欠如しているという感覚です。過去は、欠如態の自分が常にその全てを占めています。これは気持ちのよいものではありません。

そして、未来の「悩んでいない自分」を目指すのですが、これは途方もないことです。いつ終わるかわからない「悩む」という行為に、ずっと耐え続けなければなりません。

悩みによって精神が不安定になっているほど、騙されやすくなったり、とり返しのつかない大きなミスを犯したり、あるいはカルト的教団に入信したりします。これは、「悩む」という行為自体に忌避感を覚えて、悩みの存在を無化しようと、変に急いでしまった結果です。