考察や雑記。

会話は、なぜつらいのか。

※長文を読むのが煩わしい方は、最後だけ読んでも問題ありません。

認識は人それぞれ独自性を持っており、それゆえに「関係する」という渦中で相対されることによって、独自性が担保されています。この独自性が複雑な会話を生み出すのでしょう。

人それぞれが全く同じような性質なら、会話をする必要がほとんどなく、もっと簡易的な表現でもよくなる。

さて今回は、会話を焦点に共同体の相反性を見ていきます。

コミュニケーション能力

今回の論点とはあんまり関係ないのですが、コミュニケーション能力と会話自体についても一応、語っておきたいです。

巷間でいう「コミュニケーション能力」は、会話をする両者ともが一方的であって、常に相克状態にあります。一方的と一方的とがぶつかりあう、この摩擦をコミュニケーション能力というのなら、私たちは日々戦っているのかもしれません。常に闘争状態です。そして、ここからこぼれ落ちる人は「コミュニケーション能力」が欠けていることになる。

人生を豊かに、人間関係を豊かにできる、その「コミュニケーション能力」なるものは、実はそれができる人間しか対象にしていません。

会話

リアルでもネットでも交流をしていると、他者が話題を持ち掛けてきます。他者の話題は他者の話題ですから、それは往々にして、自分の話題ではない、自分に興味関心のない話題です。興味関心のないものを、こちらは興味があるものとして振舞わなければなりません。そして、自分から繰り出す話題も相手には興味のないものでしょう。

最初は興味関心のない話題も、やっていくうちに面白くなっていくのですが、ここには忍耐期間があります。やっていくうちに面白くなっていくまでの期間を考慮しなければなりません。

「やっていくうちに面白くなっていくであろう…という、その期待感こそが面白いんだ」と思えるのは、会話自体を面白いと思えるのは、実は一つの 能力です。これを訓練によって獲得できる能力だといくら喧伝してみても、それは「できる人間」による盛大な叱咤激励になります。

このような能力を、普遍なものとして扱うところに無理があります。無理をすると嘘が生成されて、事実は隠蔽されます。隠蔽された事実は、発見されるまでは無として扱われてしまいます。

もちろん会話自体を否定しているわけではなくて、会話はとても素晴らしいものです。否定してしまうと、会話によって生まれる諸可能性の余地が失われてしまいます。単に、「会話は、実は難儀である」ことを主張しています。

共通項目

他者のことはなかなかわかりませんから、(一応わからないことがわかっていますが)お互いの共通項目を見つけ出さなければなりません。共通項目を手掛かりにして、共感や思想共有をします。

自分も相手もリンゴが好きな場合、ここには「リンゴが好き」という共通 項目が存在しますが、時が経つうちに、遅かれ早かれその内実が見えてくるでしょう。嫌でも見えてきます。

「リンゴが好き」は一つの普遍性であり、その中に特殊性があります。たとえば「リンゴの若干の渋みが好き」は、「リンゴが好き」の中の特殊性です。

これはたとえですが、あなたがもし「リンゴの若干の渋みが好き」に対して、抵抗感や嫌悪感を感じたのならば、以前まで共通項目だと思っていたものが決壊します。ここから、疎遠や仲違いにまで発展していくかもしれません。特殊性を普遍性で扱うと、時に問題が起こります。

共通項目は表面的であり、そのうえ時の経過によって共通項目それ自体が変容するかもしれませんから、不確定的でもあるのです。

会話の局部化

たとえ共通項目をお互いに見出せたとしても、それらの要素は何かに内包された中での話であり、その内包している「何か」に気が付かなければ、それが崩壊したとき、崩壊しかけているとき、共通項目は形骸化してしまいます。あるいは、もはや虚構なのに権威を持つかもしれません。

どういうことかといいますと、あるAという共同体の中では「リンゴが好き」という共通項目自体が、生まれやすいのかもしれない。リンゴを食べる共同体の中での話であって、他の共同体ではこの共通項目の要素自体が形成されないのです。

この場合は、「リンゴの存在自体」や「リンゴを食べる」などです。

至極当たり前の話ですが、こういうことは実はなかなか気づけない。後々になって気付いたころには、既に取り返しのつかない大きな失敗をしているものです。

たとえば、Qさんは趣味の合う共同体Aの中にいるのに、このAに属していることに気が付かないで、その中で会話がかみ合う心地よさを得ているとします。本人に自覚はありませんが、他の共同体Bの中で会話をしていると、驚くほどかみ合わない。この落差は何だろうか。

共同体Aも共同体Bも認識できていないので、漠然とした違和感だけを覚えているQさんは、いつしか共同体Aに属していることに気付きました。Qさんはこの共同体Aこそ自分の居場所だと思うわけですが、もし共同体Aが暴力的思想の集団であったならばどうするか。

Qさんは、さらにこの事についても気付いたときどうするか。(もっとも、気付く契機はやってくるのか、という話ですが。)もちろん、逆に素晴らしい倫理的思想の集団である可能性もありますが、それは大体の場合、ない。

共同体Aであればかみ合うものが、共同体Bでは全くにかみ合わない。このようにある共同体と共同体とが相反するために、本人が無自覚的あろうとも会話相手が選別されることを、僕は会話の局部化と呼んでいます。

実際は共同体Aと共同体Bが部分的に重なるという風に明確には分けられないでしょうが、積極的に属している部分は判断しておきたい。

重要なのは、属している共同体に固執することではなく、「なぜ相反や、相対するのか?」、または「なぜ、今いる共同体から離れると違和感を覚えるのか?」をよく考えることです。

自己はあらゆるものと相反的、相対的なのでしょう。

会話がつらいのはなぜか

会話がつらいのは、相手が自分の考え方におおよそ合致するかどうかを判断しながら、そうやって猜疑心の苛まれながら、会話相手を選別してしまうからでしょう。

常に人間は、会話相手を選別しています。会話は本来、かみ合わないものかもしれません。そして、かみ合っているように見えても、どちらか一方が相手に合わせている場合もよくあります。

僕は、「かみ合わなさ」(齟齬的会話)で、未だ発見されていない問題(大概すでに発見されてますが)をあぶりだすことがことができるのではないかと思っています。