考察や雑記。

夢を強制する社会

子供時代の夢

小学校の卒業式で夢や希望を語らされたことはなかったでしょうか。それか道徳の時間で夢や希望をノートに書かされたことはなかったでしょうか。

僕は当時その経験があって、少ない経験と知識の中で四苦八苦しながら「郵便配達員」と絞り出した覚えがあります。それは夢でもなんでもなく、ただ単にその仕事しか思い浮かばなかったからです。

経験と知識量のレンジがまだ狭い中で、子供に夢を決めさせる。これは大人たちの思う美しいありようを具現化させているだけであって、実をいえば子供の将来は案外どうでもよかったりします。

ただ、その大人たちがよく思わない仕事は全力で否定するでしょう。それはその大人たちにとって美しくないか、まず理解出来ないからです。

夢を語らせるというのは、子供たちを用いた悦楽に浸るための一連の作業なのであって、子供たちのための時間ではなく、大人たちのための時間なのです。

夢は強制的に駆り立ててくる。

まず第一に夢という言葉は言葉としてインフレーションを起こして漠然としており、その時々に意味や内容が変わります。

たとえばあるAさんがある夢に挑戦する。だが、失敗する。それならと別の夢を求める。また失敗して、また別の夢を求める…段々と疲弊してきます。

ここでようやくAさんは「あ~、自分は今、精神的な安定を求めているのではないか」とふと気付きます。夢は絶対的によきものであり、幸福追求の極致であるという思い込みによって生きづらくなっていたのです。精神的に参っている状態であるのに、夢という言葉で無理やりに駆り立てられていた、走らされていた。そうではなく、この場合ならまず休息が必要であって、駆り立てられて走るのではなく、止まるのです。

なので、この言葉には注意が必要になります。夢を持てというのは実は無責任な助言で、発言者が責任を取らない助言はエゴです。

そうして、ようやく精神的な安定を保てるようになったAさんに、友人Bさんが質問します。「今の夢は?」Aさんはこう答えます。「叶えられています。今の状態です。」

世間一般で使われる駆り立てるための夢から脱却すると、その人にとっての「夢」は形骸的な存在となり、夢という言葉だけがぽっと浮かんでいるだけになるでしょう。

もしさらに続けて友人Bさんが「じゃあ、もっと大きな夢を持った方がいいよ」と助言をしてきたら、そこからは遮断するしかない。

それは夢ではなく野望です。野望や野心は幸福追求ではなく、やらねばならない重大任務の遂行です。巨大な壁の破壊であって、かなりの労力が必要になります。確かにそれを遂行出来たならば大変な幸福になるでしょうが、Aさんにとってはあまりにハードルが高いのではないでしょうか。

口実

自分は経済に関してはよくわかっていませんが(苦笑)夢は経済を回すための口実です。

「おてんとうさまが見てくださっている、ありがたや」「今年はそれなりに豊作だった、ありがたや」というような牧歌的な生き方は今の経済社会では不十分なので、農村部ならまだしも市場が発達している都心などではその生き方を認めないのです。

夢と同じように使われる希望、やりがいといった言葉も同様に注意が必要です。