考察や雑記。

推しの死に対する弔い

南直哉著(恐山 死者のいる場所)を読んで、僕は「推しの死」に対して考えを巡らせました。

推しの死は現実における死と一緒

ネット上で時々見るのが、推しの死に対して深く悲しむ人です。男性でも女性でも同じかと思いますが、圧倒的に女性の方が多いように見受けられます。

これは現実における身内、友人、恩師、ペットの死と同じような感覚だと思います。「アニメ、ゲーム、小説などのキャラクターだから、現実の死とは別物だ。所詮創作物だから。」という風にはなりません。

作中のキャラクターは確かにリアリティがあって、その人にとってそのキャラクターは実際に存在して、居るのです。場合によっては作中の様々な出来事の中で、現実における身内や友人などよりも濃密な時間を過ごすことだってあるでしょう。

死者

死者は記憶の中だけで存在している… というだけではなく、遺族にとっては実際に存在しており、存在させないとこれは処理出来ない。存在させて、その遺族に最善だと思った様々な儀礼を行うことによって、死者として別れる。(死別)

死者と生者の関係性は生前と変わらない。むしろ、死後の方がその関係性は強まったりする。

不条理な死もある。

現実でも創作内でも、病院のベッドの上で静かに亡くなる。最愛の人の手の中で亡くなるという往生。そしてもう一つあります。これには注目してほしい。

突拍子もなくいきなり死んでしまう場合です。

事故でいきなりトラックに轢かれて亡くなる、暴漢や通り魔に突然襲われて亡くなる。とにかくいきなりやってくる。

因果律という法則に沿ってくれない。これほどの不条理はありません。因果律に沿ってないのですから、受け止め方が全くわからない。死者に対する想いをどう処理したらいいかわからない。

「想いをおろして、預ける一種の儀礼や場所」が必要です。現実では恐山というところが、その一つだったのでしょう。

ここらへんは上記の南直哉著「恐山 死者のいる場所」を読むと、恐山がどのような存在なのか、僕はなんとなくわかります。なので一度読んでみてください。(宣伝ではありません。)

弔い

恐山では様々な供え物があるそうで、衣服、お弁当、風車、靴、草履、人形などなどです。つまり人それぞれの弔いの仕方、その人にとってリアリティのある弔いだと思います。ですから、推しの死に悲しむ方々も、自分なりの弔いを現実に行う必要があるのかもしれません。

僕の拙い考えですが、

○実際に恐山のような場所に赴き、もう物語の中には出てこない推しへの想いを放つ。

○現実にお墓を簡易的でいいから現実に設けて推しへの想いを放つ。

○ネット上で実際の葬式を模した葬式を上げて推しへの想いを放つ。… 

など、とにかく自分にとってリアリティのある弔いをやってみるとよいかもしれません。