考察や雑記。

そもそも「仮想」とはなにか

仮想空間には、現実の物質のあり方から抽象された空間や物体が電子的に反映されている。鑑賞者や体験者たちはそこに一つの世界が存在すると仮定して、この仮定を共有する。これを仮想という。仮想であるから、現実にその空間や物体そのものが存在するわけではないが、それをみな承知の上で能動的に入り込んで操作する。

仮想空間の中においても、時間的な持続は「現実の消滅のあり方」が抽象され、空間的な形は「現実の上下・左右・前後という形作られ方」が抽象されている。もちろん、あくまで技術的に可能な範囲まで抽象されているにすぎない。チャットのような文章による交流ならば上下・左右ぐらいの反映で足りるが、交流や商業活動となれば、上下・左右・前後の空間を反映する必要もでてくるから、利用する人間の必要に合わせて再現の抽象度が変わってくる。

仮想は開放的であるか

仮想の物体や空間は現実の反映であるが、仮想空間には影かたちだけでなく社会的な認識も反映される。女性のモデルを利用するとセクシャルハラスメントを受けること、人種によって差別を受けること、VR利用者の多くが男性であることなど、仮想だからといって必ずしも開放的でもない。現実が開放的にならねば、仮想空間も開放的にはならない。「仮想によって開放的な未来が訪れるか?」といわれたら、私は一部に限ると答える。利用者の多くが男性であるから、もし開放的な未来が訪れるとしても、現状ではその未来が、ほとんど男性にだけ訪れることになろう。

上記の指摘は、空を切るように的外れかもしれない。そもそも仮想空間を利用する多くの方々は、現実の社会から一時的に離脱するために利用している。その仮想空間において、「理想が現実的」であればあるほどよい。そのため、倫理に則して開放的であるか?という問いは、そもそも意識することでもないかもしれない。逆に、仮想空間はステレオタイプが跋扈するような空間にもなりうる。こうしてみると、これまでのネット空間の利用の仕方と重なる部分が多いと感じる。

現在、仮想空間の利用には専用機材を購入しなければならないうえ、防音性と部屋の広さを十分に確保する必要がある。経済的に窮している人には難しい。一応、スマートフォンでの利用もある程度可能だが、機能は限定的だ。また、身体的・精神的障害のある人にも難しい。もちろん、仮想空間だからこそ現実の呪縛から解放される側面もあるから、そこは高く評価しなければならないと同時に、それ以前に仮想空間の利用そのものが難しいことも考慮しなければならない。一部の人間だけが享受できるコンテンツやシステムは一時的な、局所的なものに留まってしまう。

機材を使うには使用機材を十分に理解する必要があるし、仮想空間に没入するにしても視覚、触覚、聴覚などの感覚器官を使う。長い時間利用していると、たとえば目が疲れてきたり血流が滞ったりして身体的限界を感ずる。いくら仮想空間に入れ込んでいても、体内の現象が認識に反映されるにつれて、仮想空間にたいする追体験も冷めてしまい、結局はそれが現実に作られた仮想の空間であることを否応なしに意識することになる。

仮想空間と現実は相対的に独立している。両者は「たがいに影響し合っているのだが、それにもかかわらず一定の範囲では〔中略〕それぞれ独立して行われ、一方が他方と関係なしに変化できることも事実なのである。このような関係を、相対的な独立とよんでいる」(三浦, 1965, p.21)、仮想空間における活動、現実における活動を、現実・非現実というふうに完全に区別したり、あるいは逆に仮想空間も結局は一律に現実であると決めつけるのでもなく、仮想と現実とがたがいに影響を及ぼし合いながら、それでいてある一定の範囲までは一方が変化すると考える必要がある。

メタバースという言葉について

メタバースは元々、作家ニール・スティーヴンスンSF小説、「スノウクラッシュ」(1992年)にでてくる、仮想世界を指す言葉であった。作品の中で合成語を使うことによって、空想であってもリアリティがでてくる。作者が言葉を新しく合成したり作ったりするのは、豊かな空想の世界を練り上げる際に役立つ。

このような言葉は空想の世界においては現実の言葉として扱われているが、空想ではないまさに現実の世界が、その空想の世界に見かけだけでも部分的に追いついてくると、「空想がついに現実に」という憧憬を伴ったかたちで、作中にでてきた合成語や造語が現在において再び使われることがある。作中の合成語がインターネット上にある仮想空間を指す言葉として転用されたりする。空想の産物である言葉が、現実のでき事に当てはめられて使われるようになったわけである。ちなみに、メタバースという言葉自体は2000年代から既に使われており、いま新しく生まれた言葉ではない。

転用されたからといって、そのまま意味までも全く同じになるわけではない。言葉の対象となっている現実の事物のあり方によって、転用された言葉の意味もそれに応じて変化していく。また、言葉は「個々の人間の認識が交通関係に入りこむ」(三浦, 1967, p.4)ことによって社会的に共有され、その言葉の意味が固定、あるいは流動していく。メタバースという言葉も同様で、これから意味が固定・流動化していくだろう。

メタバース」は、いまその固定化していく途中である。だから、「価値」や「空気」のように、概念として内包・外延が非常に曖昧なために、個々の人間によってそれぞれ好みの解釈を加えられてしまう厄介な言葉にもなりうる。そうなると、ある者はAという意味で使っているのに、ある者はBという意味で受け取ってしまい、誤解に発展しかねない。

見慣れない合成語・造語には留意しておく

話が脱線するが、今まで使われてきた言葉をカタカナの言葉に置き換えると、何か先進的な感じがしてくる。たとえば、時計をタイムティッキングと表現してみると、何か新しい性能の商品がでてきたように思えてくる。だが、時計という意味内容は変っていないし、当然商品の質も他と大きく変わっているわけでもない。表現のあり方が綺麗になったり先進的になっても、過度に期待しないよう常に気をつけたい。

概念 内包・外延

概念とは、それぞれ個別的な事物から普遍的なあり方を抽象したもののことをいう。椅子の概念ならば、「座れるもの」である。アームチェア、ソファ、パイプ椅子など様々な椅子があるが、これら個別的な事物から普遍的な部分を抽象してみると、どれも座れる事物であることがわかる。この普遍的な部分を取り上げて、それを「椅子」と呼称する。そのため、ただの石でも座るのにちょうどいい大きさ、高さであるならば、それを椅子と呼んだりもする。内包とは、個別的な事物に伴う普遍的なあり方の部分を指し、外延はその対象範囲のことをいう。上記の椅子の場合ならば、「座れるもの」が内包であり、アームチェア、ソファ、パイプ椅子など、それに当てはまる事物の対象範囲が外延である。

既に様々な種類の仮想空間が存在するが、これからはさらに増えてくるだろうと思われる。それぞれ個別的な仮想空間から普遍的な部分を抽象してみれば、始めに書いたようにそれは鑑賞者や体験者たちがそこに一つの世界が存在すると仮定して、この仮定を共有していることがわかる。多くある仮想空間をまとめてメタバースと呼ぶのは、用途としてそれなりに意義があるかもしれない。現在、企業がメタバースを戦略として打ち出してきた。そのため、メタバースという言葉は産業・商業的な意味合いが強いように思われる。

メタバースという言葉は定着するか

2000年代から仮想空間を利用する資本は存在したが、もし高利潤を見込めないのであれば、多くの資本は仮想空間を利用する産業・商業などから撤退し、それに伴ってメタバースという言葉もあまり使われなくなっていくだろう。なぜなら、使わなくとも、仮想空間に対応した他の音声表象を使えばよいからである。産業・商業の隆盛・競争と一緒に、仮想空間を通じた交流も当然行われるわけだから、この交流のほうで定着した言葉が使われるだろう。わざわざ産業・商業的な意味合いを帯びたメタバースという言葉を使う必要はない。

三浦つとむ(1965年)『芸術とはどういうものか』、至誠堂新書。

三浦つとむ(1967年)『認識と言語の理論』、勁草書房