考察や雑記。

常に女性を差別する国

この記事は2021年2月13日に書かれました。

 

日々めまぐるしく起こる様々な問題に、正直ほとんど追いつけていない自分がいる。逐一反応することができず、目で追うのがやっとだ。だけれども、気力が続く限り少しでも批判しておかないといけない。

(以下、時系列がばらばらなのはご了承願いたい。記事中の「" "」マークは引用符になる。)

TOCOG会長・森喜朗氏の女性差別発言

これに関して、メディア・コメンテーター・政治家等は、「女性問題」、「女性発言問題」、「もめ事」、「不適切発言」、「女性蔑視ともとれる」などと濁しているが、どのようにどの角度から見ても「女性差別」である。森氏は、誰が明言したかは言わなかったが、「女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて…」という旨の発言を引用し、これに続いて彼本人も"そんなこともあります"と言う。これは発言内容の一部だけだが、既に十分に差別的である。

「女性は話が長い」は差別意識からくる思い込みだ。そもそも、女性に発言権が与えられることは、男性と比較すると少ない。しかも、そんな中でなんとかその女性が発言すると、煙たがれたり鬱陶しく思われ、さらに傲慢だとか横柄だとかレッテルを貼られる。なぜなら、周りの人間は「寡黙さや補助的役割こそが女性」だと見なしているからだ。女性を置き物として存在させたいのである。そちらのほうが、男性にとってもずっと都合がいい。女性が喋らなければ、主導権は常に自分が握ることができるのだから。そのため、会議や談話で話が長いのは、女性ではなく男性である。

日本の様々な企業で行われる会議が長引きやすいのは、家事や育児を一方的に女性に任せているからである。会議をする男性たちは妻に家事を任せているからこそ長く話せるのだし、その上帰りに飲み会をして、酩酊状態で帰宅する。妻はこの痴態を見て憤怒する。家事育児等の「ケア」を放棄する夫に対して妻が怒るのであるが、ここから「かかあ天下」という言葉が生まれた。そうやって茶化し、責任の放棄を隠蔽するのである。戯画的な言葉には常に注意しておきたい。

本来なら家事育児を念頭に、なるべく早く家に帰ろうとするだろう。実際、働きながら家事育児をする女性からすれば、このような男性の傲慢と怠惰さは愕然とする光景なのである。

スポーツ庁のガバナンスコードは女性理事の割合を40%を目標にしているが、これを森氏は"女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。"と、厄介扱いする。彼は、人権などどうでもよいのである。この疫病禍で行われる予定のオリンピックに出場する選手に対しても、同様の意識だろう。彼は自己・組織実現のためなら、人の犠牲をいとわない。選手や国民の存在より、「高度成長期の日本」という幻想の実現のために動いているのだ。

実業家・原田泳幸氏のDV問題

原田氏本人は否認しているが、暴行を受けた谷村有美氏は昨年の6月あたりにも、暴行を受けたことを渋谷警察署に相談している。家庭内暴力は「家庭」という密室で行われるから、逃げようがない。人間を保護する家庭空間があるとき一瞬にして裏返り、暴力・殺人の現場となるのだ。

その上、相談を受ける機関が問題を矮小化してしまうことも少なくない。夫婦のプライベートな問題、家族の問題として矮小化するのだ。「家族の問題は家族で処理せよ」という家族主義における規範は、ときに人を死に至らしめる。

選択的夫婦別姓導入に対する、自民党内からの反発

選択なのだから、別姓でも同姓でもどちらを選択してもよい。そのため、「伝統」とか「家族の一体感」とか「同じ苗字の夫婦の方がよい」という主張等も、選択的夫婦別姓は当然認めている。その考え方で同姓を選んでも、もちろんよいわけである。

そもそも、パートナー間の事柄に国家が介入しているのだから、人権の侵害であり違憲だ。選択的夫婦別姓に反対している者たちが、内心としては「女性が男性の苗字を名乗り、男性に従属する」のを望んでいるなら、それは差別だ。しかもこれは「制度」として、強固に差別の構造を維持・賦活する。

女性議員に対する不当なリコール

URL先に詳しく経緯が書かれているが、URLの記事を参考にここにも経緯を記しておく。なぜなら、女性が性暴力を告発すると、どのような扱いを受けるのかがよくわかる事件であるからだ。

群馬県草津町で「唯一」の女性議員である新井祥子氏が、黒岩信忠町長から性暴力を受けたとして告発したところ、町長の名誉を棄損したとして懲戒処分で除名された。これに関して山本一太県知事は、除名処分を違法であるとして除名処分を取り消す判断をしたが、町長・町議会議長は審査の不十分さを訴えて、リコール運動を始めたのである。

なんとしてでも、やめさせたいのだろう。URL先にもあるように、本来リコールは住民が主体となってするものであるが、本件では町長・議員側が行っている。"町長や議員の多くは社長や旅館の主人など雇用主や上司であり、彼等は直接間接的に町民の生殺与奪権を握っている"のだから、これでは権力による圧力である。結局、新井氏へのリコールは成立した。男性たちによって、力ずくで解職させられたのだ。新井氏を支援したのは中沢康治町議、ただ一人だけであった。

新井氏は、おそらく相当な覚悟をもって告発に臨んだと思うが、これに対してネットから「本当に事実か?」、「明確な証拠はあるか?」、「あなたにも欠点があったのでは?」などと疑念を示す言葉が向けられた。性暴力の告発をすると必ずといっていいほどセカンドレイプを受けるはめになってしまう現状があるのだ。男性中心主義社会おける女性の立場やあり方を少しでも意識していたら、まずこんな発想は出てこないだろう。被害を受けた者全員が冷静に証拠を残せるわけがないし、欠点は加害者と加害者を作り出す社会構造側にあるが、二次加害(セカンドレイプは加害者側に同一化、同情しているのである。

男性でも性暴力を受けることは多いが、これも隠蔽されやすい「『男性』である自分が、男性から暴力を受けた」とは公言しにくいということ、性別に関係なく性暴力の加害者は立場や賞与などを利用して巧妙に暴力をすることなど、男性中心主義社会では「権力」が暴力を行うための有効な手段となるのである。