考察や雑記。

哲学 自殺願望と希死念慮の違い

※本記事は自殺を推奨、奨励するものではない。また、心理学ではない。

自殺願望と希死念慮

狭義から少し外れてしまう定義であるが、自殺願望(死にたい欲望)は、将来のいつかに自殺することが前提とされている。希死念慮(消えたい欲望)は、肉体ひいては自己が完全に消え去った無を前提とされている。

また、自殺願望は自ら自分を能動的に殺めるものであるが、希死念慮は「自然発生的な消滅」や「何かで粉々に粉砕される」など、受動的に消滅させられるところをイメージする。

これらも欲望なので、これが「他の活力」に転化する可能性も、一応あるにはあると思う。そのため、理論的には自殺行為を制止させることは可能だが、それが自殺・消滅以上の意義や魅力がなければならないだろう。自殺観念を制止させる、あるいは消滅させるのは難しいといえる。

自分が存在していた痕跡を忌避する希死念慮

希死念慮を持つ者は「自分が存在していた痕跡・記録」を忌避する。自分の行為によって残った痕跡は、自分の存在証明を意味してしまう。そのため、初めからこの世界に自分がいなかった世界線を想定するのだ。

自死の意義

自死は、一見意義のないことのように思える。しかし、自死は病気、人間、仕事、金銭、掟、思想、そして※「自分が自分で思惟をしていることを自覚する」ことなどのあらゆる関係を一気に絶つことができるため、当人にとっては非常に意義ある行為である。自死は脱皮的な運動でもあり、あらゆる関係が解消された自己をイメージさせる。(注釈は記事下部にある。)

死後の世界について

これは博打的行為とも見ることができよう。なぜなら、人間は死ぬことを知らないから、死後の世界たる存在は原理的には誰にもわからない。もし死後の世界があるならば、死そのものが無化されて、自殺は別次元への移行行為となる。この論理において死者と生者という構図はない。こうなると、そこに「いるか、いないか」になるだろう。あの世にはいないが、現世にはいる、というふうに。

存在しないことを他者から容認された存在が死者だから、死者というのも生者視点の産物である。日本における葬式の火葬は、「もう存在しないということの確認」儀式の一つだ。火葬された者は死者になるが、それでも他者が「まだあの人は生きているような気がする」などと思っていたら、その者はまだ生者である。

もし、死者なる「生者」が地獄や煉獄などの別次元から遺族へ連絡を取ってくるのなら、そこにどんな条件があったとしても、(連絡のために専用の儀式をしなければならないとか、宝玉を集めなければならないとか)電話と変わらない。

博打的行為

不確定な要素を不確定のままにして、それに賭けて実行するのが、自殺である。出家もこれに近い。たとえば、解脱のために修行をする場合を考えてみても、その解脱を達成できるかわからないままに修行するのである。重要なのは、「できるかもしれないし、できないかもしれない」どころか、できない状態すらわからないのだから、結局わからないまま老衰や病気で死ぬことも十分ありえる。すなわち、緩慢な自殺ともいえよう。

意識の消滅 即 世界の消滅

人間は感官や認識で世界を捉えているが、自死の成功によってこれらは消滅するとしよう。これを極端に唯我的に考えてみると、意識の消滅は世界の消滅であって、そこから先はない。これはもちろん観念的なたとえで、一応この消滅を「無」と見ることもできる、という話だ。現実として客観的に見れば、世界は消滅しておらず、そこには確かに死体がある。だが、希死念慮は主に自己の消滅を求めるのであるから、「意識の消滅 即 世界の消滅」という構図は重要になってくる。

なぜ希死念慮を抱くのか?

希死念慮の部分に話を戻そう。希死念慮を持つ者は「自分がこの世に存在している意義や理由がないと思っている」というよりかは、意義や理由自体が世界のどこにもないことに絶望している状態なのである。確かに、世界には様々な幸福があるが、この者からすると幸福が他の物事と並列化する。幸福が、それ以上でもなければそれ以下でもなく、そこらへんで起こる物事などと全く同等なのだ。だがもちろん、幸福としての内容は確かに含んでいる。意義や理由を見出そうとしても、この者はそれらの理由全てが、着脱できる汎用なものに思えるのである。内容はあるにしても、ただ単にそれらは、「自分に付けたり外したりできるもの」としか思えないのだ。

漠然とした表現ばかりなので例を出そう。たとえば、仕事で成果を上げ、財産を手に入れた。研究で成果を上げ、人望を手に入れた。この者はまさにいま幸福である。だが、幸福を現に経験しているのに、まるで他人事か、知識としての幸福を自分に当てはめたようにしか思えないのである。

無として存在しているその者は、無であるというのに存在している上、行為までもしているのである。無であるのに存在している不可解と、無であるのに存在しなければならない重圧を感じるのだ。

注釈

人間は思ったり考えたりできるけれども、この能力自体に私たちは関係していて、さらに関係していることを自覚できるのであるから、(だから行為に責任が生じる)自死によってこの関係を切ることには意義や魅力がある。