考察や雑記。

正岡子規の「死後」とフィヒテの自我について その2

その1

次に、三浦氏はフォイエルバッハを引用する。

フォイエルバッハはこれに反対していう。「私がソクラテスプラトンのことを考えなければ彼らは私にとって存在しない、ということから、彼らはかつて私なしに存在したことはなかった、ということにはならない。」ソクラテスプラトンのことを考えるときは、想像の世界に対象化するから、彼らとそれを見ている観念的な自分とは不可分にはちがいないが、現実の世界でのソクラテスプラトンはわれわれがまだ意識を持たない以前に死んでその姿を消してしまったのであるから、意識から独立して者が存在するということも認めないわけにはいかない。

"ソクラテスプラトンのことを考えるときは、想像の世界に対象化する"というのは、たとえば親しい友人を頭の中で想像で思い描くとき、想像の世界の自分は微笑んでいる友人を見る主体になっており、友人は想像の世界の中で対象に位置づけられている(対象化されている)、ということだ。だけれども、このことから友人が目の前に、本当に現に存在していることにはならない。この「二重化」の理論は、同著者による「認識の言語の理論 第一部」の115Pあたりにも詳しく書かれている。少し引用しよう。

単に頭の中に記憶している友人のありかたを、観念的に自分の向う側へ位置づけて観念的な自己の対象にしただけのことで、現実に友人が存在しているわけでも何でもない。
(略)過去の認識活動の結果として得られた頭の中の事物のありかたの反映を、空想的に自己の「外界」へ持ち出して客観的な世界から現に認識しているかのように位置づけるのであるから、現実的な自己の現実の世界と観念的な自己の観念的な世界と世界が二重化している。(太字は原文)

頭の中で想像している自分(現実的な自己と現実の世界)、そして想像の中で見ている自分と向う側に位置する見られている友人(観念的な自己の観念的な世界)、この現実の世界と想像の世界とが二重化している。つまり、両者をいっしょくたにすると二重化してしまうのである。、この"空想的に自己の「外界」へ持ち出"す、というようなことを、疎外という。疎外については、この説明だけでは全く足りていないので、また別の記事で書きたいと思う。

世界だけでなく、自己も二重化していることに注意したい。たとえば私たちが想像をする際、まるで目の前の物が無化されたかのように、想像の中の対象「だけ」が意識されたりするが、だからといって現実の想像している自分までもが、かき消されているわけではないし、自己が一時的に分離したわけでもない。誰でもあるように、たとえ夢想に耽って目の前のことが無化されていたとしても、それと同時に現実で想像している自分もいる。

"人間の実践においてつねに伴う認識活動"

三浦氏は上記のような認識活動を"人間の実践においてつねに伴う"ものとして分析している。

われわれが過去の父母の生活や自分の誕生について考えるときにも、それを見る自分を「附け加えて考えて」いるし、裁縫や編物をする女性たちがその出来あがったすがたを想像するときには、やはりそれを見る自分を「附け加えて考えて」いるではないか。してみればこれは人間の実践においてつねに伴う認識活動である。三浦つとむ著「文学・哲学・言語」33P 

これに対して、「それはただ単に想像、単にイメージではないか」といえば、それで確かに終わってしまう。だが、人間は受動的に外界を認識するだけでなく、能動的に想像して外界をより深く把握していく。「受動的に認識すること」と、「能動的に想像していくこと」が相互に影響を及ぼし合うのである。