考察や雑記。

正岡子規の「死後」とフィヒテの自我について その1

三浦つとむ著「文学・哲学・言語」を読んでいると、次のような内容があった。

対象を見るときに見る主体が必要だということは、死後の自分のありかたを見るときにも共通している。そこで想像に際しては現実の自分から観念的な自分が頭の中で分離して、この観念的な自分が対象を見る主体になるというわけである。30P

※(太字の部分は、実際は傍点がしてある。以下の引用箇所も同様。)

正岡子規の「死後」

引用は、言語学者三浦つとむによる正岡子規「死後」の分析部分である。この「死後」の内容にも触れおく。正岡子規は、自分の死後についてこう想像した。簡単に要約しよう。…自分が死んだら、早桶に入れられて土葬される。土葬までの道中は、友人に担がれて移動していく。土葬されたその辺には野生の小さい草花が沢山咲いている。

長患いの病床にあった彼は、想像で自分の死後を思い描いているのだ。三浦氏の分析を続いて引用していこう。あまり知識のない者でも、わかりやすく解説されてある。

もちろん子規はまだ死んでいない。「自己の形体の死」とは、現実に生きている子規の想像である。それゆえここには、現実の生きている子規と、彼の頭の中の想像の世界でのすでに死んでいる子規と、二人の子規がいることになる。この二人を区別すると同時にその関係を見失うことなく統一的に扱っていくことが必要になる。26P
(略)現実の生きている子規の頭の中の想像の世界には、観念的に対象化されて客観的に位置づけられたすでに死んでいる子規の死骸と、それから抜け出してきたものと設定された肉体を持たない観念的な死後の考えと、この両者が存在しているわけである。26P
(略)観念的な「自分の考」のほうは、想像の世界を横行闊歩して、自分の位置を自由に変えることができる。あるときは死骸の中へ入ってその位置から死骸としての経験を語り、あるときは死骸の外にいて死骸のありかたをながめ、ある場合には死骸の入った早桶といっしょに徹夜であるいて行くという具合である。27P

※観念的とは、実証的・現実的ではなく、思弁的に頭の中のみで考え、これだけに依拠しているようなさまのこと。また、人間の想像そのものを指して使われることもある。

引用の"観念的に対象化されて客観的に位置づけられたすでに死んでいる子規の死骸"は、想像の中で自分の死骸を眺めている、ということだ。観念的な想像の中では自分の死骸が客観的に対象として位置づけられており、"それから抜け出してきたものと設定された肉体を持たない観念的な死後の考え"は、自分の死骸を眺めているわけである。

要約すると、肉体が滅んでも死後の「自分の考」なるものが、横行闊歩している、ということになる。このように言うと、「単なる妄想」で済まされてしまうかもしれないが、それでは冷たい嘲笑で終始してしまい、全く分析にはならないのだと思う。三浦氏はこう言う。

一言でいうなら、想像の世界を見るのは想像の世界での自分で、現実の世界の自分は現実の世界のきわめて一部を見る以上に出られないのである。だから、二種類の自分を確認して、正しく区別することが、認識論を科学として建設するために不可欠なのである。30P

フィヒテの自我

次に三浦氏は、フィヒテの対話を引用する。引用部分の一部を載せよう。

意識とともに物、物とともに意識というより以外のもの、あるいはもっと厳密にいえば、両者のいづれでもなくあとになつてはじめて両者へと区別されるもの、絶対に主観的=客観的であり、客観的=主観的であるもの以外のものをとらえようとのぞんではならない。31P

次はこれに対する三浦氏の引用。

彼はこれより七年前に、「われわれはつねに自分自身を、この物を認識しようとつとめる知性として、附け加えて考えている。」と述べている。物と自分との関係は、フィヒテのいうように単純ではなくて、想像の世界での物はもちろんのこと、現実の物でも、直接認識できない存在は想像のかたちをとって、観念的な自分としてつかまなければならないのだから、フィヒテのように物と自分との関係を抽象的に一般的にとりあげると当然ふみはずしてしまう。31P ※附けは「つけ」と読む。
彼がいう<自我>(Ich)とは、現実の自分と観念的な自分とをいっしょくたにしたものであるし、想像の世界では物と観念的な自分の意識とがいつでもついてまわる事実から、現実の世界でも同じように物と現実の意識とがいつでもついてまわるかのように、不当に誇張した結論へ持っていったのである。31P

私たちは認識できない物でも、これは確実に存在するであろうと予想したり推測したりするが、この想像活動における予想や推測を"観念的な自分としてつかまなければならない"のである。

想像の世界の自分と物を現実的に扱ってしまうと、現実の世界の自分と想像の世界の自分がいっしょくたにされてしまう。つまり、"想像の世界では物と観念的な自分の意識とがいつでもついてまわる"ことから、現実でもこれと同じようになってしまうのである。

なお、ここでは唯我論やデカルトの方法的懐疑のような論理は、ちょっと隅に置いてほしいと思う。あくまでも想像の世界と現実の世界とを分けた上で、認識活動の中でこの両者がどのように相互に浸透しているかを、唯物論の立場でよく分析しなくてはならない。ただ、私自身そこまで唯物論に詳しくないのであるが…。

その2へ続く。