考察や雑記。

「母性」とは何か。

役割

まず、気になる点がある。父性の意味内容の中に、母性の意味内容が含まれていないのはなぜだろうか。つまり、「家事育児などの"ケア"をする」ことが、なぜ父性の中にも意味合いとして含まれていないのか?である。

一面的だが、簡単にいってしまうと、父親が育児・家事などをしないからに他ならない。つまり、「母性」や「父性」は、性別役割分業を前提とした言葉なのだ。もちろん、近年は男性でも家事育児をするようになった。これは先達の活動の恩恵である。だが、依然として「やらない」男性は非常に多い。どれほどの量をこなせば、「やっている」ことになるかは、私も十分にはわからないから、これについてはまた別の記事にしたいと思う。

女性は内的・家庭的に無償労働をし、男性は外的・公的に労働、つまり仕事をする。(としてみよう)男性の役割は、「仕事」として見做されているのだ。このように言うと、「では、女性の無償労働もしっかりと仕事として認めよう」といった狡猾な主張が出てくるが、その使用者は誰になるのか。賃金を払うのは誰になるのか。男性であろう。そこまで言うのなら、私やあなたが家事や育児をすればよいし、男性でもケアをする社会を推進・喚起していけばよい。わざわざそのような制度を作るよりも、ずっと簡単ではないだろうか。もちろん、「家事や育児を有償にするのは悪手だ」というわけでは全くなく、これも必要だ。現に家族経営協定のように、家族間に第三者が介入して、契約関係を結ぶ例はある。重要だと思うのは、これと並行して男性でもケアをする社会を推進していくことだ。ただ、権力を持った男性は権力の使い方が恐ろしくいうまいために注意が必要だ、ということなのである。

性別役割分業は広く使われている言葉であるが、使用には注意が必要である。この言葉には「役割」とあり、役割とあるからには、まるで「役割= 正当」のようにも思えてくるが、実態は役割という名目の半永久強制不払い労働、あるいは半永久強制不払い労働(夫という監督者ありの暴力つき)である。またさらにここに、雇用関係を結んだ労働なども含まれてくる。虐政による不況の中では、女性は強制不払い労働以外にも、別種の労働をする必要があるのだ。

死後における不払い労働

これはさすがに言い過ぎで、観念的かもしれないが、女性は死後でも不払い労働をするのだと、私は思う。では、男性側から見てみよう。母親を想う中高年のその男性たちは、たとえば、バーの"ママ"や女性の介護職員や女性の店員に、自分の母親像を投影する。彼らは彼女たちに何を期待しているかといえば、母性であり、「女性」である。

母親という「女性」は、ケアをする母親像として、死後も彼らの頭の中に象徴として存在しており、そして現実の女性に投影される。そのため、女性は常にケアの役割を期待されるのだ。自分の頭の中に存在する理想の女性像を現実の女性に投影しているため、「現実の女性」と「投影された女性像」とが二重になる。

だが、当の男性たちは投影してるとは全く思っていないわけだから、二重ではなく、そこには投影された女性像だけが存在していることになってしまうのである。観念的な女性像と、現実の女性が一致しているのだ。しかるに、現実のその女性は、投影された女性像を一々演じなければならない。つまり、ここでいう母親とは、母性を強制された女性のことだ。投影という形で、死後も母親は不払いで働き続け、差別は連鎖するのである。

エレン・ケイの母性主義を見る

母性に関しては、特にエレン・ケイを絡ませて考察されることが多いように見受けられる。以下、論文の引用。

「エレン・ケイの母性主義思想」服部範子

彼女は『人形の家』のノラにたとえて、ノラは「19世紀の女 」、19世紀は 「婦人の世紀」だったのだという。それに対して、来るべき20世紀 は「児童の世紀 」であるという。彼女は婦人運動の第二期として、第一期が「個 」を優先して、自我を主張する考え方が優勢であったのに対して、人類や種族の立場から考えるという視点を前面に出した。

「婦人」運動が盛ると、役割だけに押し込められてしまう苛酷な現状に対して、不満や異議が活発になる。役割を強制し、また期待してくる男性の抑圧に対する毅然とした抗議として、"「個 」を優先"するのは、当然の帰結ではないだろうか。「役割」に対するアンチテーゼとしての、「個」である。 

ケイは女性にしかない機能・女性にしかできない役割という、女性の独自的部分を強調し、これをもって、男女の平等や優秀な生殖を構想した。

女性はまず母親であることが大切で、「婦人は国民の最も尊い宝ではない。母となった者または母となるべき者が国民のうちの最も尊い部分である」[『児童の世紀』,109]と いう。女性にとって母親役割が優先され、またそのことによって女性の社会的地位は高められることになった。つまり、彼女の論理では、性差を極端に強調することによって男女の平等を実現しようとするが、そのかなめの位置に「母性」があることになる。

役割か、それとも個人か

役割を果たすこと、個人として生きること、さて、女性はどちらを選ぶか?ではない。どちらも選んでいいのだし、どちらかを選んでもいいし、もっといえば、他の選択肢と一緒にたくさん選んでもいい。そもそもなぜ選択肢がこれだけしかないのだろうか。あからさまな受験差別や雇用差別などは論外であり、多種多様な選択肢が、初めから用意されていなければならないはずだ。

「覚悟を決めなければ、選択すらできない」ような、苛酷で、過酷な社会では、結局のところ差別構造は維持されてしまう。育休、産休の充実・託児所の充実・保育、福祉に対する労働環境・労働待遇の充実などは、働くための必須条件だ。何の社会保障もないのに、労働できるだろうか。

実を言えば、世の男性はこのことをよくわかっていたりもする。長年、男性社会で生きてきた私はよくわかる。「できない」ことを、初めから期待しているのだ。できないのだから、「役割に徹せよ」というわけである。これなら、いつまでも男性性という権力を維持できる。残るは、身と魂を削ってきた「エリート女性」であるが、男性は臆面もなくこれを奨励してくる。ここまで頑張れば、君も評価されるのだよと。

「女性よ、さぁ頑張って手に入れよう」ではない。そんなに努力しなくとも、それなりの労働待遇や収入を得られるような社会でなければ、人類が続く限りにおいて、差別も続いてしまう。そのため、私が第一に思うのは、まずは男性が己の権力性に気付かなければならない。その権力を持って、権力に歯向かい、権力を崩さなければならない。つまり、男性が男性中心的な構造に対して、恒久的な抗議をしなければならない。