考察や雑記。

「ホームレス」note・cakesの炎上について

本件の記事を書いたライターユニットのnoteは、下記のURLから確認できる。cakesの記事だけでなく、noteの記事も確認した方が、より問題点がわかるかと思う。

ライターユニット。ホームレスのおじさん達の「生きていくエネルギー」をテーマに、彼らの特殊な生活体験の紹介をしています。【受賞歴】cakesクリエイターコンテスト2020/優秀賞

日本国憲法第25条

国は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する義務を負っている。生活が困窮している人に対して保障をしなければならない。以下は憲法第25条の規定である。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

人は、何を契機にホームレス状態※に陥るのか。たとえば、雇用条件の悪化、突然の解雇(日本人だけでなく、当然技能実習生などの外国人も含む)、多重債務、詐欺、家族との軋轢、家庭内暴力、離婚、知的障害や精神障害に対する支援不足、難病や大病、老齢、自然災害、失策による人災などだと思われる。その経緯は段階的なケースもあれば突発的なケースもあり、また当然複数の要因が重なる場合もあるだろう。

憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。私たちはこの権利を持っているから、もし生存が困窮した場合、国に対して支援を請求できる。政府や福祉が上からの目線で「あなたの過失でホームレス状態になったのだから、自分で解決せよ」と豪語しても、それは通らないのだ。必ず支援の請求には応えなければならない。

このような規定は突然無から生成されたわけではない。これまでの惨禍の末に、人々の内省によって徐々に形成されていったものである。単純な「~してはならない」「~すべし」といった、規範や道徳ではない。であるから、憲法第25条と、これに連関している規定を恣意的に再解釈し、改正してはならない。

重要なのは、ホームレス状態にある人が「自ら支援を断る」ことが少なくないことだ。そこには、目上への忠義や自己責任の、つまり自助の精神が深く根付いている。現在ことさらに用いられている、自助・共助・公助は順番に出現するものではなく、常に並列している。そのうちの公助は、まず土台たる地盤として、自助・共助を支えなければならない。否、そもそも、自助・共助は付け加えず、公助だけを掲げればよい。「最後の『最期』まで、自助・共助で踏ん張れ。政府や福祉には、できるだけ頼るな。」では、それは公助でもなんでもない。

私が思うに、現在の日本の福祉は「来たる者だけ」を支援しているように見える。また支援の申請に関しても、様々な理由があるにせよ、その手続きの複雑さ・煩雑さが当事者を躊躇させているのではないか。

ホームレス問題は社会の問題

ホームレス問題は、社会の問題であり、つまり私たちの問題である。単なる個人の問題ではなく、個人は社会と切っても切れない関係にある。社会保障の希薄さ、労働環境・雇用条件の劣悪さ、政策の遅さ、福祉の見落とし、選択的な無関心、ホームレス問題は様々な要素を横断している。

そのため、当然直接的な支援だけが全てではない。生活保護の申請補助、炊き出し、住居の提供などの直接的な支援に加えて、たとえば労働待遇・雇用待遇改善のためのストライキ、デモ、ビラ配り、企業や政府が行う差別に対する抗議や請願なども間接的な支援になる。

私たちはただ機械的に労働しているわけもなく、生活に関しても同様である。肉体的な営みに加えて、また「精神的な営み」も行っており、これが否応なく社会に反映されていく。そのため、その精神的な部分が差別的な意識であった場合を考えなければならない。種々様々な抗議運動は、社会に対して喚起し、是正への門戸を開く「活力」となる。

「差別の扇動(ヘイトスピーチ)や組織的な反社会的行為」と、「暴力や差別に対する抗議」を並列化させたり、反対主張や抗議を"お気持ち"として、貶めてはならない。社会的な問題を個人の問題として矮小化するのは、暴力への追従である。

以下本題

まずは、件の全体的な問題点について見ていこう。

ホームレス状態は、希薄な支援・福祉という「放置と排除の暴力」を受けている状態である。その暴力の中で見出された生活の知恵を、ルポタージュとしてとり上げるとき、生活の知恵の部分だけを切り取ってしまっては、さも当事者本人らが、それを能動的に受け入れて自活しているようにも見えてしまう。

その生活の知恵は確かに優れた知恵であるかもしれないが、暴力の中で行われている知恵を見ものとして消費していることには、常に自覚的でなければならないだろう。ヴィクトール・フランクルによる「夜と霧」のように、強制収容所の中でも確かに人間は「人として」生きようとしていた。暴力の極致の中で見出された、創造や芸術や詩は崇高にさえ見えるが、それはいずれにしても暴力の中で生まれた。その崇高さだけを切り取って、当事者を「観察」する者はいない "はず" である。

重要なのは、ホームレス状態に陥った人々の多くは、日々苛酷な生活を送っていることだ。体調不良、病気、道行く人からの突然の暴力、蔑視などに遭う当事者は、明日の我が身を想う。この場合、私たちは取材に応じられる、つまり比較的余裕のある当事者のみを見ているのであって、その全体を見ているのではない。

「状態の戯画化」

では、ここでホームレスの定義を今一度確認する。ホームレスの定義は、「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者」(ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法から引用)となっており、たとえ路上や河川敷でなくとも、ネットカフェ生活や、知人宅を転々とする場合も含まれる。また、住居(家)があっても、居住権が侵害されやすく、その状態が不安定であれば、これに該当する。

記事中では、ホームレス状態にある人のことを「ホームレスのおじさん」と呼んでいる。それも、茶化すように何度も何度もこう呼んでいるのだ。これは「状態の戯画化」といえるが、戯画化できるような問題ではない。たとえそう呼ぶにしても、それだけの理由や文脈が必要になるが、そこはライターとしての腕が重要になってくるのではないだろうか。

件のライターユニットは、一貫してこのような眼差しで取材を行っている。つまり、現にホームレス状態にある人を、面白おかしく観察できる対象に仕立て上げたのだ。これが、このライターの成果である。90年代のアンダーグラウンド媒体の忠実な焼き直しといえよう。

そもそも、なぜ彼(彼女)らが常日頃から「観察」できていたのか。それは住居を持たない生活はプライバシーが筒抜けだからだ。ホームレス状態は、常に人権が侵害されている。だからこそ、住居の提供支援が必要になる。

最後に

このライターユニットは、何を目的に「観察」したのだろうか。社会に対して、どのように何を喚起したかったのだろうか。ホームレス問題が社会の構造とどう繋がっているかを、どのように伝えたかったのだろうか。とにかく何も見えてこない。観察が観察だけで終わってしまっている上に、その揶揄的な観察の眼差しに嫌悪感すら覚える。noteやcakesはこれらの記事を賞賛し、さらに賞まで授けた。差別と暴力に箔をつけたわけである。また炎上するだろう。