考察や雑記。

アツギの件 何が問題だったのか。

僕は芸術論や表象論には全く詳しくないですが、考察していきたいと思います。

長くなりますので、先に結論を書きます。何が問題かというと、女性の要素を意図的に性的にし、その上で広告塔や集客として、モノのように女性を使用したこと。女性を常に性的に見てもよいものとして扱ったこと。タイツを、女性を性的に見せるための道具として扱ったこと。社会的責任が大きい企業がこれを平然と行ったこと。これに対して擁護する男性の意見が多いことなどです。

献血宇崎ポスターを振り返ってみる

去年の献血宇崎ポスターを今一度思い出してみます。あのイラストは一応、現実的な世界が反映されているのですが、部分的には空想的です。確かに現実の自然法則や社会関係がそれなりに適用されていて、その中でウェイターとしての宇崎さんが描かれているのですが、ただそれだけではなく、部分的に不自然な誇張や強調などが施されています。

胸の大きな女性は確かに存在しますが、全ての女性が大きいわけではありませんし、常に誰かに見てもらうために胸が存在しているでもありません。胸が大きい人を責め立てているわけではなく、胸が大きいことを特別性的なものとして扱っているわけでもなく、それを「性的な部分として扱うこと」や「性的に見ること」がおかしい、という話です。なので、たとえば、局部を5秒ほどジロジロと見ることも性加害になりますから、視線をそらすことが必要です。

人間は生理現象として時折「頬」が赤くなったりしますが、常に赤いわけではありませんし、全ての、「赤くなった頬」が性的に興奮しているからという理由で赤くなっているわけではありません。

姿勢によって、時折「服が身体のラインに密着」することはありますが、常にそうなっているわけではありませんし、また、常に性的に見られたいから服を着ているわけではありません。ファッションや、外部の環境から身を守るためです。まず自分自身のために着ていますし、時には、信頼できる友人や恋人に見てもらって、お互いに楽しむために着ています。

他にも、性的な表現手法はたくさんあります。もちろん、性的な表現手法であっても、それは作家の努力の結晶ですので、時と場所と場合を遵守して楽しむことが大切です。

追体験

たとえば、作家(作者)が肖像画を描く際は、作家の向こうに被写体が存在しており、それが描かれています。被写体と作家の位置や感性的な見方などが、同時に、一つの画面に統一されて表現されています。これは、作家の想像の世界の中でも同様で、作家は想像の中で宇崎さんの前に位置して、宇崎さんを眺めています。

作家の精神性もイラストには反映されています。作家の精神性は作家の自己のみで純粋に築かれているものではなく、もちろん、社会的に影響されています。ですから、作家のみによる完全な想像の産物ではありません。ときに作家独自の奇抜な精神性が反映されている場合もありますが、多くは社会的に影響されています。

作家は、鑑賞者がより追体験をできるよう工夫をします。たとえば、視点や主人公の思想を、鑑賞者の好みや感覚に合わせたり、シチュエーションを鑑賞者の欲望に応えるような形にしたりします。献血宇崎ポスターの場合は、「男性からの性的な欲望」に応えるような形になっています。

次に被写体(宇崎さん)からの視点に注目してみます。この視点の先には、必ず性差別的な目線が存在しています。想像で、見られる側の視点に立ってみると、その向こう側には性差別的な目線を向ける存在があります。私たちはこのような絵を鑑賞する際に、必ず、性差別的な目線を向ける存在を追体験することになります。

というのも、献血宇崎ポスターの視点は、実は「性差別的な目線を向ける存在の一人称視点」です。なぜなら、鑑賞者の欲望に応えるような形で、作家は描いているからです。本来なら、性的に表現されていない被写体が存在しているはずで、そうであれば、ただ単に作家や追体験する人の「一人称視点」になります。

女性の鑑賞者の場合は二重に精神的負荷がかかります。強制的に被写体側に立たされてしまうこと、強制的に見る側の感覚を追体験させられてしまうこと。この二つを、同時に経験することになります。男性の鑑賞者の場合は、多くが後者のみになりますし、差別的であると気付いていない、あるいは差別的であると気付いていても、意図的に「差別的でない」とする立場を取る場合は、それはなんら問題のないイラストとなります。

差別的であると気付いていても、男性と女性とでは相当な非対称があって、差別的だから抗議しようと思う男性でも「自分が被写体になる」ことを追体験する男性はほとんどいません。非対称性に注目することは大切だと思います。

一般化

エロ漫画やエロアニメなどのポルノグラフィを見てみると、同じように多くの女性キャラクターの胸が大きく描かれたり、ほぼ常に「頬」が赤くなっていたり、服が異様に身体に密着していたりします。

日本では、このような表現が一般的になっており、少年漫画や広告イラストや教則本の表紙などに転用されている現状にあります。ですが、作家自身は、その表現が差別的なものだとは気付いていない場合があります。(もちろん、気付いている場合もあります。)そのため、作家側からすると、「ただ表現しているだけなのに、差別表現とされてしまう」と思い悩むことにもなります。重要なのは、女性を描く際の「技法」を学ぶ段階で、既に差別的な表現をも学んでいることです。

アツギの件では…

今回はタイツを扱う企業の問題なので、「タイツ」を要点にしてみます。

アツギの件を要約しますと、企業アツギが「タイツを着た女性のイラスト」をイラストレーターに依頼し、また投稿させて、公式ツイッターがそれをキャンペーンとしてRTしました。それが性的なイラストだったので、問題となりました。

タイツは防寒用や、バレエなどの運動用に用いられることが主な用途です。保温性や伸縮性があって動きやすいのが特徴であり、そのため、必然的に身体に密着する衣服です。もちろん、ファションとしても着られています。この件は、その必然的に密着している部分を、性的に強調した問題でもあります。必然的に密着する衣服を、性的に扱った例は他にもあって、スクール水着(「スクール水着」は俗称です。)やハイレグなどがそうです。

つまり、タイツを、女性を性的に見せるための道具として扱ったことになります。これをタイツを扱う企業が行いました。本来なら、企画段階で反対意見がでるはずですが、管理的な立場にある人間の大半が男性で、様々な決定権は男性が握っていることが多いです。そのため、女性の意見がほとんど通っていませんし、たとえ意見があっても、あまりに少数過ぎて「象徴」として扱われてしまっています。それでも、「女性は存在しているから」と、この部分のみを度外れに拡大して、「女性もちゃんといるし、活躍している」とうそぶくのは、性差別的な男性たちの詭弁です。

性差別的な認識は、おそらくこの業界だけのものではないと思います。日本は性差別的な構造が確立されており、あらゆる業界に根を張っています。

差別構造

このような指摘をすると、「女性でも肯定的・賛同的に見てる人はいる」という反論がよくなされますが、これは属性(この場合は女性という属性)だけに注目させる詭弁だと僕は思っています。その人は、「女性に対する性差別的な感性や欲望」を、そうとは意識せずに内面化※しているわけですが、辿ってみれば、おおもとには社会的に構築された性差別的な思想があります。その人も、社会的に影響されているからこそ、肯定的・賛同的な意見をしています。ですから、これはただ属性だけに終始する問題ではなく、差別「構造」の問題です。※内面化とは、外部の既存の価値観や思想を、自己に対象化すること。

この構造を賦活しているのが、多くが差別的な男性なので、そこが問題とされています。性差別的な表現に抗議をすると、その男性たちがよく「表現の自由を侵している」と主張しますが、表現の自由は「差別的な表現をする権利」をも、保障しているわけではありません。たとえば、差別的な表現によって、ある特定の人々が差別されたり迫害されているとします。このとき、その対象となった人々が抗議する自由を、表現の自由は保障しています。表現の自由は、このような意義があって存在しています。

また、女性からの女性に対する視線、あるいは女性が女性を性的に見ることも当然考慮する必要がありますし、このことが全て「性差別的な感性の内面化」に還元されてしまうことは、あってはならないと思います。これは、性差別的な感性の内面化とは、また別の話です。

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参考書籍 三浦つとむ 著 「日本語はどういう言語か」