考察や雑記。

「ラッキースケベ」とは何か。

ラッキースケベ」とは、偶然や不意を利用し、責任追及を回避した架空の性加害である。偶然や不意を、意図的に利用している。もちろん、フィクションだからといって社会や思想に対して影響がないわけではない。

ラッキースケベ」はカタカナ表記であり、たとえば「セクハラ」のように軽い感じを与えかねないが、私はこれに代わる言葉が思いつかないため、やむを得ずここでは「ラッキースケベ」とかっこ付きで表す。

マリリン・モンロードラえもん

映画 「七年目の浮気」で、マリリン・モンロー演じる女性のスカートが、地下鉄の通気口の風でめくれ上がるシーンがあるが、映像の中では手を下している人間はいない。周りの人間が意図的に手を下して、スカートをひっぱったわけでもない。だが、確かにこの女性のスカートはめくれ上がって下半身が露出してしまっており、女性は視線という被害を受けている。

漫画・アニメ「ドラえもん」で、登場人物であるしずかの風呂場に、のび太が不意に出くわしてしまうシーンが度々出てくるが、彼(のび太)は映像の中では手を下していない。だが、確かにしずかは身体を突然に見られており、視線という被害を受けている。また、両例ともありえないシチュエーションなのは明白だ。

どのような表現か

この表現には、現実の何が反映されているだろうか。それは性的な欲望・性加害の欲望だ。(性欲ではない)その上、加害の責任追及を回避した暴力である。性加害は暴力であり犯罪だが、不意という形で責任追及が回避されており、加害者は、被害者や社会から追及されていない。のび太はしずかに訴えられているだろうか。のび太は犯罪の嫌疑を受けているであろうか。さらに、覗かれた翌日には何事もなかったかのように、しずかはのび太と学校で接するシーンが出てくる。

「七年目の浮気」の例では、女性はそばにいる男性の視線に遭っているにも関わらず、風でめくれ上がったスカートを押さえながら、笑みを浮かべている。そのため、性加害を受けた女性はまるで「加害を喜んでいるかのように」も思えてきてしまうのだ。つまり、この表現は性加害を暗黙のうちに肯定しているのである。

もし、現実の世界で本当に不意に「見て」しまったら、すぐさま視線をそむけなければならない。(上記の例はありえないシチュエーションだが)性加害者になってしまわないように、常に注意を払う必要がある。

暗黙のメッセージ

鑑賞する方も、それがフィクションだと了解済みで鑑賞していくが、たとえフィクションであっても、鑑賞者はその中の暗黙のメッセージを受け取って、教訓として実生活に持ち込んでいく。

性的な視線も暴力になる。被害者からすれば、じろじろと凝視されているのはすぐわかるのに、往々にして加害側はそれを否定する。これは、視線の暴力性を矮小化しているからこそできる否定であるが、なぜ矮小化できるかといえば、上述のような暗黙のメッセージを教訓として受け取っているからである。単なる視線であるとして。

ラッキースケベ」は創作の中で表現として行われており、フィクションであるが、上述を見ての通り、フィクションだからといって全てが許容されるわけではない。フィクションは決して免罪符にはならない。