考察や雑記。

トランス差別に反対する

「当事者ではないこと」は、一体どういうことだろう。

僕は、たとえば外部から性別を押し当てられたような感覚はなく、今まで「葛藤」が全くと言っていいほどなかった。過去も現在も、身体に根差した違和はありません。

そのため、少なくとも今は当事者ではありません。ですが、関係はしています。関係している… つまり社会に存在している以上は、社会的な影響・責任が生じます。

当事者ではない者は、関係はしていても、問題から即座に逃げることができるし、逃げ切ることもできる。対して、まさに渦中にある当事者その人は、逃げることなどそうできず、逃げる途中で死にかける。あるいは死が起こってしまう。

トランスフォビアの言説を見る度、僕はこの非対称性を鑑みます。現に全ては、いま同時に存在している。トランスフォビアに反対・トランスジェンダーの差別に反対します。

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僕がここで語るよりも、当事者のトランスフォビアに関する記事の方がはるかに示唆・含蓄があると思うので、先にそれらを貼ります。

ゆな氏のブログ 「ゆなの視点」から 

すでに隣人である私からすでに隣人であるあなた達へ

また、社会学者のトランスフォビアを扱った記事も貼っておきます。

小宮友根氏のエッセイから 

「女性専用スペース」とトランスフォビア

※9月3日。確認したところ、上の記事は削除されていました。これには理由があります。記事が載せられていたサイトの「WAN」で、トランスジェンダーへの差別を扇動、または正当化するような記事が載せられ、小宮友根氏はそれに対する抗議として、WANに対して自分の記事の削除を申し込みました。そのために削除されたのだと思われます。

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もっと色々なことを書こうかと思っているのですが、いかんせん自分にはまだ知識がなく、あまり知識のない状態では誤りをおかしてしまう可能性があるので、深く書かないようにしています。

この場合の、「誤りをおかしてしまう可能性」の「誤り」は、単純な「誤り」だけで収まらないことも考慮しておかないといけない。なぜなら、それこそが差別や偏見や憎悪の扇動であることが多々あるからです。

「いや、知らなかったのです。」では済まされないことがある。それに、このように言う人は、ずっとそう言い続けます。いつまで経っても知らなかったと言い続けて、知らないことを免罪符として扱う。つまり「知らない」に安らぐことができた。対して、知っているものは知らざるを得なかった。

葛藤

それでも一つ書いておきたいのは、当事者の方が、ずっと日々経験していく葛藤の部分です。当然ですが、僕は当事者その人本人ではないから、脳を共有しているわけではないから、どのような感覚の葛藤なのか全くわからない。このわからないということは、既に一つの特権だと思う。知らないことに安住できる。

その葛藤の存在すら無視して、無いものとして排斥していく。個人の考え方だとか、ただの個人の意識だとか言って矮小化していく。差別は、時に、存在しているものを存在していないと言い、存在していないものを存在していると言う。まさに恣意性そのもの。

当事者の方々には葛藤が確かに生じていて、そしてその程度も各人それぞれ違うけれど、絶対に葛藤はあるではないですか。いくら単なる個人の主観として矮小化しても現に存在するし、それは社会的なものです。

悪質なのは、おそらく上記のことを知っておきながら「私も、自分を女性だと思うから女性」「自分を〇〇だと思うから、自分は〇〇」(この〇〇には、ある属性やある存在が入る。)と、当事者を揶揄する主張があることです。

たとえば「自分を猫だと思うから、自分は猫」だとしてみる。字面としてみて、この「自分を猫だと思うから、」の読点と「自分は猫」の間に、この空白の間に、一体どれだけの経験とそれに付随するどれだけの感情や思いがあったのか。葛藤の有無で、この「自分を〇〇だと思うから、自分は〇〇」が、揶揄となるか事実となるか、変わってくると思う。