考察や雑記。

いくら親しくても、知らない部分があるのはなぜ?! その2

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観念的な人物像


観念的な人物像は、時に一人歩きします。その人を過小評価したり、あるいは過大評価したり。嘘のレッテルをはりつけて、名誉を毀損したり。こうすればこの人は喜ぶだろうと、勝手に決めつけたり。

観念的な人物像が一人歩きしやすいのは、それを否定する本人が不在だったり、あるいはその人が投影されていることに気付いていないからで、そして投影している本人も、投影していることを意識していないからです。

われわれはいかにもすべての客体を認識するであろうが、しかしどの客体をも認識しつくし、知りつくし、或は把握しつくすことはできない。言いかえれば、客体は認識の中へ解消するものではない。頭脳の中には事物の無限の多様性と無数に豊富な性質を入れる余地はない。
ヨーゼフ・ディーツゲン著 「人間の頭脳活動の本質」

いくら親しくなったとしても、その人の全てを知り尽くすことは、まず不可能だと思われます。限界があるところに、多様性があります。

意思疎通ってなんだろう?


さて、なぜこのようなことをしてしまうのでしょうか?それは、他人が何を考えているのか、直接にはわからないからに他なりません。わからないことがわかっても、わからない部分は変りません。

意思疎通を取る際、言葉やジェスチャーを使います。言葉は音の振動で、それが耳に届いて伝わります。ジェスチャーは身体を動かし、相手の視覚に届いて伝わります。そのほかにも色々な意思疎通の取り方があるでしょう。

つまり、直接的ではなく、必ず言葉やジェスチャー間接的に媒介させているのです。相手の精神が直接自分の脳みそに入ってくるということはありません。

たとえ以心伝心なる感性的な認識でも、必ず相手の表情・目の動き・息使い・身体の仕草などを見たりきいたりしていますし、さらにはその場所の室温・照明の明るさ・匂い・雑音なども感じとっています。ですから、以心伝心でもしっかりと間接的な媒介があります。

例えばムードのある瀟洒なレストラン、大病院の真っ白な個室、斜陽が注ぐ放課後の教室などで重要な意思を伝えるにしても、それぞれ伝わり方が異なります。

つまり、これらの空間の中では言葉やジェスチャーの伝わり方が違うわけです。言葉やジェスチャーの意味を強めたり、あるいは変容させたり、また色々な文脈をくっつけたりします。