考察や雑記。

「道徳的政治観」

とりあえず結論から書きますと、「道徳観の延長線上に政治を据えているために、政治への監視が緩い。政治家との距離感が異様に近い。」ということです。

昨日はふら~っと自転車をこいでいると、こんなことをふと思いつきました。

「学校の道徳は善悪をただ固定的に扱い、宗教の教義はその教義に信者を賭けさせ、倫理はこれらを問うのではないか?」

今日はこの、学校の道徳の部分。これについて書きたいと思います。

人間は政治的存在

5月あたりから「 検察庁法改正案に抗議します 」で、ツイッター内は盛り上がっていました。政治に関わりたくないという形で政治に関わっていた方も、このことに関して言及したりと、今までにない空気が流れていますが、風化は驚くほど早い。

僕は、人間は生まれながらにして政治的存在だと、牧歌的にそう思っています。なぜなら生まれた瞬間に社会と必ず関わることになるからです。   

その瞬間、医療制度に関わり、大きくなれば教育制度に関わり、労働者になれば労働法に関わっていき……。

そしてその制度や法律を司っているのは、三権(立法、司法、行政)であり、この3つの権力は互いに監視し合います。国民はこれらを注視し、そして自分たちの権利や自由を守るための世論を形成していかなければなりません。いうまでもなく、特に権力者による横暴や差別が見えやすい内閣(行政)に関しては、よくよく監視が必要です。            

このとても基本的なことを、近頃は痛感するのです。

道徳

タレントのつるの剛士さんは、「国民の皆さんで安倍首相にお疲れ様、ご苦労様を言いませんか?政治家の皆様も同じ人間。人です」と言い、「安倍総理ありがとう」や「安倍総理休んでください」といったハッシュタグを用いて、安倍さんを労います。これには多くの賛同者がいらっしゃいました。

人を労うのは、とてもいいことです。道徳の授業でも「感謝しましょう」や「人を助けましょう」や「人を労いましょう」といった言動を推奨、奨励します。

推奨や奨励されている決まり事を遵守すれば善人になるかというと、必ずしも善人になれるわけではありません。決まり事はいわば「善人の基準」を作っており、道徳は外部に存在する規範だと思います。

基準を設けるからには善悪を固定的に扱わなければなりません。

倫理

対して、倫理はこれらを問います。外部からではなく内部からの個人的葛藤。往々にして、倫理を意識するのは究極的決断、危機的状況です。

たとえば、敬虔な信者が集まる地域で災害が起き、大勢の方が亡くなられたとします。そんな中で、権力を持つ信者は言いました。「これは自然の災害ではなくて、天罰だ」「我々には罪があって、そのせいで罰が下された。教義もそう示している。」

それでも遺族はこう思います。「亡くなったあの人は、何も悪いことはしていない。たとえしていたとしても、やりすぎだ。」

自然に自己はないですから、自然に因果律を当てはめても埒があきません。ですが、自然の背後に存在する神的存在の意に背いたことによる「罰」とすれば、因果律がはっきりしますから、このような主張がよくでてくるのです。

教義や規範などの決まり事を善悪の根拠とするのは道徳や宗教(共同体)ですが、やはり、上記のようにそれが問われる契機が必ずやってきます。

そのとき、共同体はどのように根拠を固めるのか。根拠が根拠たるゆえんを、属する者に対して説得する必要があるのです。そして、属する者(たとえば信者など)はその根拠に賭けることになります。