また長々と書いてしまいそうなので、結論を先に書きます。
謝罪をすること自体が目的と化してます。「謝罪」という行為さえすれば、それだけで問題は解決された、あるいは説明責任を果たしたことになるのです。
外見だけしっかりしていて、中身がない。つまり、外見が中身になっている…。
形骸化した謝罪は、抗議や批判に対する一つの、ただの対処法となってしまいました。
本題
様々の著名人・政治家が、差別発言や悪質なデマ、暴力行為や隠ぺい行為などをしたときは謝罪会見が開かれますが、往々にして「開かれて終わり」です。
では、日本における謝罪という行為をちょっと見てましょう。
問題の所在を明らかにしない。(所在を曖昧に、あるいは分散させて、責任追及を最小限にしようとする。)
被害者の問題にする。(たとえば、被害者が自分の意志でやったことにする、個人の感情の問題にするなど。)
そもそも何が問題なのかを理解していない「ふり」をする。
そもそも何が問題なのかを本当に理解していない。
問題を矮小化する。(たとえば、全体的な問題を二者間の問題にして、責任追及を最小限に抑えようとするなど。)
問題をすりかえる。
責任転嫁をする。(ついには責任転嫁のリレーが始まり、結局だれも責任をとらない。そうこうしているうちに、問題が風化してくるのを狙う。)
嘘をつく。(嘘というのは、いわばその場しのぎであり、本当がバレていても本人は 気にしない。)
不快にさせて申し訳ないといって、受け手の「感情だけ」の問題にする。(その感情とセットになっているものは何か?を考えない。無視する。そうやって感情論の問題だけにしてしまう。)
加害者であるが、同時に自分は被害者だと言う。(自分は被害にも合っていたから、つい加害をしてしまった!!と発言するパターン。その加害行為を追求されているのだから埒が明かない。というか この場合、そう思い込んでいるだけで、往々にして被害に合っていない。)
そもそも謝罪をしない。
謝罪後
とまぁ、キリがない。何も謝罪会見ではなく、職場や家庭でも日夜この類の「謝罪」が行われています。
そして、その謝罪後によくあるのが「謝罪したのだから、もう構うな」です。非常に高圧的で、謝罪を免罪符だと思っているわけです。
中身が伴っていないことを指摘すると、酷い場合は逆切れをする。
何をしてしまったのか
加害されたほうは「何をしてしまったのかを、知ってほしい」と思うはずです。まず、自覚してほしい。
もし差別発言をしてしまった人がいるとしたら、その人には「それは差別 であり、そしてどのような差別であるか」を、まず認知してほしい。
何が最善の謝罪であるかは場合によりけりですし、僕も倫理の深いところまではわかりませんが、「何をしてしまったのか」を細かく知っていくのは 謝罪の大原則だと思うのです。長い時間をかけて、それと地道に向き合っていくしかありません。
和解の強制
突然電話をかけてきて、「あのことについて謝らせてほしい」なんて言ってくる人っていませんか。(僕はまだ経験していないのですが)これは、自分のした行為を背負いきれないから、とにかく謝罪をして楽になりたい…ということです。
残念ながら、その人が自分のした行為を分析・自覚できていないようなら、その謝罪は拒否されるでしょう。また、謝罪というのは結構な圧力がありますから、謝罪された方はたとえ許せなくても、一応の和解をしてしまうものです。
ですから、和解の強制はいけないです。これでは謝罪の皮を被った狡猾な暴力になってしまいます。
5/5 近況報告
改憲死ぬほど反対です。