考察や雑記。

演奏がうまい人は、楽器と合体している?

自分は一切楽器ができないので、詳しくはわかりませんが…(説得力に欠けて申し訳ない)

たとえば優れた奏者はフルートを吹くとき、いちいち「このキーを押さえる…」とは考えないと思います。楽器と自分の身体が合体して、楽器が器官化して、楽器に神経が行きわたっています。単なる外付けではなく、内臓化しています。指を曲げる、足を上げる、腕を回すという感覚と同様に、楽器を演奏している。

突拍子もない考え方かもしれませんが、楽器演奏がうまい人を見ていると、なぜかそう思えてくるのです。

楽器を演奏しない人にもわかりやすく…

(僕も楽器は全くできないですが)

ゲームをしているとき、私たちはコントローラーのボタンを押しますが、ゲームの画面を見ているとき、そのことを意識しません。 

操作キャラクターをジャンプさせるのに、いちいち「ジャンプさせるときはAボタンだ」と意識することは、あまりないでしょう。

ですが、極端にゲームが下手な人はどうでしょうか。¥下手な人の場合は、一々コントローラーを確認して「このボタンを押してジャンプしないと…」という風に、自分の感覚とゲームが繋がっていないのです。そのため、柔軟性や俊敏性を欠くことになる。

何かを掴むときは必ず指を曲げますが、その度に「指を曲げるぞ」とは意識しません。それは意識されないで行われます。むしろ意識した方がやりにくく感じるでしょう。呼吸でも同様です。

一例

意識はまず「音」に行きます。    

「この音程を出すとき、ここを押す」とは意識せず、何の手順も無いかのように鳴らされる。もちろん、客観的に見ると(他人の視点で見てみると)確かに手順があって、色々なところを押したりしています。

対して、それを制御するべきもの、あるいは制御しなければならないものとして意識している場合は、楽器との間に壁が生じています。

その間に「意識する」という行為が生じてしまう内は、演奏することに慣れていない状態かもしれません。

楽器は完全に身体の外にあり、「楽器がある」とか「楽器を持っている」という風に、楽器は外界にただ存在する物体となっているのなら、それは自分の身体ではないわけです。

(ただ、オーケストラだと少し事情が変わるはずです。なぜなら、オーケストラだと指揮を見たり、他の奏者と合わせたりする必要があるため。)

難しい演奏の場合

とても難しい曲の演奏だと指が絡んだり滑ったりしますが、この場合は演奏ミスをした瞬間だけ、意識として突出してくる。その瞬間、楽器は「楽器」として意識される。

義肢

義肢でも同様で、義肢だと意識しないことが重要です。意識した瞬間に、「義肢」という物体になるでしょう。

たとえば、任意で取り外そうとしたとき、義肢という物体になります。取り外すのを意識するまでは、確かに自分の身体になっているのです。

ですから、たとえ血の通った自分の指でも、それが「自分の身体にくっついている物体」と意識されているなら、自分の身体ではない。(普通、こうなることはほとんどないかと思いますので、安心してください。)