考察や雑記。

打ち込みより、生演奏の方が優れているのか。

生演奏にも、色々な種類があります。「録音の生演奏」あるいは「コンサートやストリードライブでの生演奏」など。

本記事では、「録音の生演奏」を指して説明していきます。

DTMにおける打ち込み

生演奏では自然の多様な現象が働きますが、DTMにおける打ち込みだとそれはなかなか起こりません。なぜでしょうか。

それは人間の作った理論の中で、音が鳴らされるからです。もちろん、制限があるからといって、表現の幅が狭まるわけではありません。

相互浸透

打ち込みはコンピュータによって数値的に変換されて打ち込まれています。

対して現実の生演奏では人間が演奏しているので、音に揺らぎがあります。これによって、いわゆる人間味や生っぽさが出ますが、打ち込みだと音は生演奏よりも固定的に扱われます。仮にベタ打ちだと音は一定の位置に配置されて、一定の音量で鳴らされて、一定のテンポで時間は支配されます。

そこで、生演奏を模倣した打ち込みと生演奏を比較してみると、生演奏はリアルに聴こえる。ここでリアルと表現出来たのは、打ち込みによって生演奏のあり方が浮き彫りになり、表現としてより鮮明になったからです。

生演奏と打ち込みは、実は相互的な関係です。相互に浸透して、互いに補強し合っています。

また、リアルだからといって生演奏の方が優れているわけではありません。一つの側面として、生演奏は「リアル・写実的」という形で表現されています。

リアルが足かせとなるときもある

ポップスの制作現場で生楽器を使った音楽を作るとき、「ドラムが生っぽくて、なんだかアルバムイメージに合わない」ということがあるそうです。そのため、わざわざドラムだけを打ち込みにして、他のパートとの融和を考慮するのです。

リアルだから、写実的だからというだけで、無条件に良いというわけではありません。

生演奏を対象化する

打ち込みをする際、人間の認識は現実の生演奏を参考にします。生演奏を対象として認識し、そしてそれを元に表現しています。ですから、打ち込みはただ模倣しているわけではなくて、「模倣」という形で表現されています。

DTMの打ち込みは生演奏の代替だ」と言うのは、DTMを代替的に捉えすぎています。確かに代替的側面もありますが、物事の一面を拡大して、それを全体化するのは間違っています。

純粋に「芸術としての表現」とみると…

実際、打ち込みで生演奏を模倣すると、確かに機械的になります。ですが、無骨で機械的でありながら、音楽的には豊かになったりするのです。

打ち込みは人間では不可能な演奏を可能にしたり、現実では不可能な音色の融和を可能にしたりします。これによって、演奏の全てが電子楽器による 打ち込みの作品も生まれてきました。

もちろん、表現それ自体がはじめから音楽性を持っているわけではありません。その表現の価値が、様々な形で見出されたときに音楽性を持ちます。

たとえばターミネーターの音楽を担当したブラッド・フィーデルがいます。彼は、生演奏では文脈や背景としての「未来的で幾何学的な世界観」をうまく表現できないと考え、シーケンサーやドラムマシンの打ち込みを用いて制作しました。 

これは、劇伴としての表現手法を見出しただけでなく、打ち込みに対しても、音楽的な価値を見出したといえます。話がそれてしまいますが、もう少し例を出しましょう。

たとえば環境音楽はどうでしょうか。虫の鳴き声やショベルカーの轟音、街中の雑音や風の反射音など、世界には様々な音が鳴っています。

つまり、環境音楽は「人間が知覚できている音は全て、音楽的な叙述が可能である」ということを暗に示しています。 

では、どこでもいいので環境音を10分録音・再生して、一定の時間と空間の中に押し込めてみます。そうすると、無限に無味乾燥に広がっていると思われていた環境音が、「音としての固有的存在」として、認識の中に現前してくる。

こうやって音楽的な価値が見出され、表現として確立していきます。環境音はただ外界に存在するだけでなく、人間の認識によっては、それが 音楽として叙述性や官能性を持つのです。

矛盾

「打ち込みは無骨で機械的なのに、音楽的には豊かにもなる。」

これは矛盾していますが、矛盾の維持を実現させることで、その事物が充実することがあります。この、形式論理上の見方。つまり、この人間の思考における判断のことを非敵対的矛盾というそうです。

(中略)両者が調和するように努力しなければならない、実現そのものが 解決である矛盾を非敵対的矛盾といいます。
三浦つとむ弁証法はどういう科学か」283P