考察や雑記。

無意味な生

いきなり唐突にですが、僕は安楽死(積極的安楽死)を否定、反対しているわけではありません。「全体による圧力」を背景にこれを個人に強制していく世の中になるのではないかという、妄想を抱いているだけです。

最近片手間に読んでいる南直哉著「善の根拠」を読むと、この問題における要点、注意点ともいえる部分を示してくれていました。

たとえば、現代日本において「もう生きていても無意味だ」と考える人は、「明瞭な意識を持ち、行動を自己決定できる者こそが正常な人間である」という考えを前提とするだろう。
この考え方は、西欧近代化以降の人間観を土台としていて、ということは 結局、市場経済が造形する人間の存在形態である。
すると、「無意味な生」とは、所詮「市場的に無意味な生」、つまり、生産にも消費にも売買にも役に立たなくなった人間の在り方、という意味になり、とてもではないが「自己決定」とは言えまい。市場に「自己決定」させられている、と言うべきである。

さらに南直哉氏は、

「法制化によってその死が義務付けられたとするなら、市場経済の価値観を根拠とする法律が「意味のある生と無い生」を区別するという、錯覚の極限状態が現出するだろう。」とも語っている。

南直哉氏本人のブログでもいうように、これは考えすぎの杞憂なものかもしれません。おそらくそうでしょう。ですが僕は、確かに今この日本で何か現実味を帯びてきているような気が、しないでもないのです。

「取引の出来る生、役に立つ生こそが、意味のある価値ある生であり、いうならば、これがこの世で求められる人間である。」 

このような根拠のない規定付けが、この世の通底にあるのではないかという疑念。

根拠のない規定付けとは、市場経済はあくまでも取引なのだから、根拠なく人間の在り様そのものまでも規定付けることは出来ないだろう、ということです。

僕は経済のことはよくわかりませんが、今でも市場経済が大きな影響力を持っているのは確かです。それゆえに、強烈な錯覚を人間にさせてしまう。

これを悪い、良いと言いたいのではなくて、この錯覚をしっかりと見つめる必要があるのではないかと思うのです。もちろん、「生きるべきだ。」というわけにもいきません。