考察や雑記。

苦痛信仰とは何か。

このツイートを見て自分なりに考えてみました。

苦痛が現前するのは、相手(他者)が楽をしていると見えるときです。

今この私が苦痛を感じているのに、相手はその苦痛を感じていないとすると、ではこの私が感じている苦痛は何か?ということになる。 

なぜ私だけ苦痛を感じているのか?と、自己に問う。そして相手のその楽を私は手に入れることが出来ないかもしれない。出来たとしても、今までの苦痛を感じてきた私が否定されたような気持ちになる。

苦痛は確かに苦痛だが、苦痛が「単なる苦痛」として現前するのは、相手がその苦痛を感じていないときになる。

そこで皆が皆で苦痛を感じれば、それは「単なる苦痛」ではなく共有された苦痛へと変換されて、自己の安定が保たれる。やがてこの苦痛は共同体を 維持するための決まり事、ルールとなり、共有していない者は排斥される。

共有された苦痛を成り立たせるためなら、不合理や非効率などが存在しても問題はありません。共同体が共同体として存立出来るのなら、不合理があってもよいのです。共同体の維持のためなら、手段を選ばないかもしれません。

この共同体は脆く存立している。なぜなら、苦痛は確かに存在しているからです。

最も戦慄するのは、苦痛自体が快楽へと繋がるところです。また、苦痛させるということは自己を安定させることにもなりますから。(共同体の安定は、すなわち自己の安定となる)

この強制はときに恣意的になったり、殺人的になるでしょう。