考察や雑記。

自己の連続性ってなんだろう?

Dr 林のこころと脳の相談室

【3868】コンサータによって自己の連続性を失いつつある

まず質問者は

私は、今まで、脳と精神を分離して考えてきました。ですから、あらゆる行動に対して、私は何ら脳を意識することなく、(医学的には擬制なのかもしれませんが)意識=精神が主体となり、客体は、それ以外のものであると、経験的に認識していました。

と、脳と精神を分離していました。質問者のこの説明だけでは材料不足になりますが、「脳と精神を分離した」ということは、それぞれ脳と精神が独立して存在していると解釈できるのではないでしょうか。

独立して存在しているなら、なぜ精神は脳の影響を受けているのか。

そんな中、質問者は薬の服用によって科学的な事実を体験することになります。

コンサータ の服用によって変容することで、私は、「自己が連続している」という、多くの人が当然考えているであろう常識を疑わざるを得なくなってしまいました。また、同時に、メチルフェニデートが、脳に働きかけているという科学的な事実が、この精神の変容という事実と合わさることで、脳=精神という、明確な結論を導き、その結論に向き合うことで非常に動揺しております。
精神の座が脳であることなど、言わずとしれた常識なのですが、いざ、それが明確な形で体験されると、私は、あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎないという絶望感=「副作用」を毎日、毎日、経験しているのです。

そう動揺しながらも質問者は

私は、いっそ、コンサータ を飲んでいる時が、真の私であり、他は全て、異常として認識することで、それを解決しようとしました。

と、解決に努めます。

もしそうであるとするなら、服用していないときの自分は本当の自分ではなく、すなわち真の自己ではないということになります。

では、本題に入りましょう。

自己は連続しているのか。

薬を服用していない、

1ADHDによる症状が出ているときの状態」も自己であり、

2「薬を服用して落ち着いている状態」も自己である、ともいえます。

これだと自己は連続しています。確かに連続はしているのですが、1のときと2のときの感覚や意識や行動様式が異なるために、客観的に比べてみるともはや「別人」のように思えてきます。1のときと2のときとの変化が小さければ気にする必要はなかったかもしれませんが、

コンサータ 服用当初は、コンサータ によって、感覚過敏から解放され、初めて、ゆっくりと本を読むことができるようになり、感動のあまり泣いてしまいました。この感動はあまりにも激しく、「私は、もう完全に『脳』を支配した」という優越感(あるいは、副作用としての多幸感に過ぎないのかもしれませんが)を得ました。

という、大きな変化でした。

連続はしていても…

別人のような1も自己なのですが、これを2の薬の服用によって変容した、「生きやすい自己」から改めて比べてみると、1は到底受け入れられない自己となってしまいます。

現代社会(大雑把な括りで申し訳ありません)の大体の人は、1はなかなか受け入れられないのではないでしょうか。これらを自分に置き換えてみると、2を本当の自己だと思いたくなります。

抹消

また、質問者は1を抹消しようとしますが、今度は抹消しようとしている 状態こそが病的なのではないかと悩みます。

具体的には、コンサータが切れかかったら、直ちに睡眠薬を飲み、コンサータ が服用されていない状態をできるだけ回避することで、コンサータを飲む前の私と、飲んだ後の私という自己の連続性の断絶を防いでいるのです。
しかし、客観的に見て、このような私の行動こそ、病的なのではないかという、さらなる疑問が噴出し、自分の理性を超えて、疑問がどこまでも上昇してしまいます。

超越的な精神

「客観的に見て」の部分は、質問者の

脳と精神を分離して考えてきました。

を浮かび上がらせてくるように思います。なぜなら、12も客観的に見られる自己がいるからです。では、この客観的に見られる自己は一体どこにあるのか?と考えると、おのずと脳から離れた超越的な精神の存在を想像してしまうのも無理ありません。

これに「その超越的な精神はどこから来たのか?」と反駁すると、必然的に神といった創造主や大我が出てくるのです。

考える必要もないこと?

ちなみに、このような問いは人によっては考える必要もないことです。なぜなら唯物論から見れば、精神は単なる脳の中の出来事という一言で終わってしまいます。自己が複数存在してしまうのも、複数存在している自己が互いに干渉してしまうのも、単なる一つの脳の中の出来事です。質問者のいう、

所詮は中枢神経の発火に過ぎない

ことになります。

では、ここまでの「妄想」あるいは「思い込み」はつまらない問いかというと、確かにそれはそうかもしれませんが、それをできるのが人間なので、ここはよくよく考える必要があります。

人間の認識は受動的だけでなく能動的で、独自に想像力を働かせて未来予想をしたります。そしてまた、自分を客体化させることもできます。