考察や雑記。

トランスジェンダー 違和のグラデーション

今回は現代思想2019年2月号の127P 藤高和輝さんの寄稿「とり乱しを引き受けること」についての感想です。

違和連続体

「性別違和(gender dysphoria)」とは、DSM第五版に記載されている診断名であり、「指定されたジェンダーに対するその人の感情的、認知的不満足を表す一般的な記述用語」
この「違和連続体」という概念は、違和を有無の問題としてではなく、グラデーションやスペクトラム上の差異として考えるものである。
(中略)「違和連続体はマイルドな不快感からトランスセクシュアル身体改造への強い衝動まで」……

どんな人でも既存のジェンダー規範にどこか違和を感じて、それと葛藤し、とり乱すことがある。ある人はそれによって身体の部位を切除するほどではないが、ある人は切除しなければならないほどに違和を感じる。

またあるいは、少し女性的、男性的な恰好をするだけで十分な人もいる。

「みんな違ってみんないい」ではない。

トランジェンダーに関しては最近知ったので間違った解釈をしてしまうかもしれないですが、違和の差異にもグラデーションがある、ということだと思いました。ただ、ここで注意点を一つ上げておきたいです。

藤高さんも、

トランスジェンダーとシスジェンダーのあいだの差異を抹消してしまう危険が存在するだろう。

と言うように、相対主義に陥らないように注意しなければなりません。

違和連続体は「みんな違ってみんないい」というような、単純な道徳ではない。みんなそれぞれに独立して真理がある、では困る。そうではなくて、それぞれの真理は、それぞれの真理と関係し合って、それぞれの真理たりえているということです。

有徴化の回避

藤高さんは違和連続体をこう捉えています。

(中略)私が探究したいのは、トランスジェンダーをなんらかの欠如態として描いたり、あるいは「特殊な人」として有徴化するネガティブな記述ではなく、トランスジェンダーに対してポジティブで非病理学的な記述を与える可能性であり、そして、十把一絡げに「性別違和」と呼ばれるもののその内部の多様な差異を捉える可能性なのである。(中略)シスジェンダートランスジェンダーの差異は性別違和の有無ではないことになる。

とり乱しによる政治的結節

シスジェンダーは性別の違和をある程度感じながらも、それを抑圧したり忘却するという形で応えることができるが、トランスジェンダーはそれが出来ないので常に向き合うという形で応えていく。

常に向き合うという形で生きられるのならば、別段優劣はつけられない。

ですが、トランスジェンダーは社会が押し付けてくる性規範に対して常に耐えることになってしまう。耐える中で「とり乱し」が起きる。 

この「とり乱し」はただ単にそれだけの現象なのか。ただ単に個人的なもので終わってしまうのでしょうか。

違和とは厳密に個人的なものであるように思われる。だが、(中略)「個人的なもの」とはフェミニズムが強く主張したように「私的なもの」ではない。むしろ、「個人的なもの」とは政治的な結節点である。
「個人的なもの」とはカテゴリー的要約には還元されない多種多様な仕方で現れる政治的結節点であるということなのだ。(中略)違和やとり乱しを個人主義化することではなく、むしろ、私と他者、社会との関係をより複雑化し、その入り組んだ政治的結節点を省察する契機を与えるものなのである。
バトラーが『自分自身を説明すること』で述べたように、「自分自身を説明する」は終わることの絶え間ない「社会批評」(Butler 2005 : 8)を要求するのだ。

アイデンティティを乗り越えるべきか

藤高さんはこのとり乱しという言葉を、田中美津さんのテクストから引用しており、田中さんはリブを通じて初めて「とり乱す」ということを自己肯定しえるようになったと語っています。

ここで先ほどの(上記の項目「みんな違ってみんないい」ではないの注意点の部分)真理をアイデンティティに置き換えてみます。

それぞれのアイデンティティは、それぞれのアイデンティティと関係し合って、それぞれのアイデンティティたりえている。

ということは、それぞれに責任も生じるということになります。

アイデンティティを乗り越えるべきか?私の答えはノーである。そのような思考法は私が「男」であり、「異性愛者」であり、「日本人」であり、「健常者」であることに伴う「他者」への責任をうやむやしにしてしまう。
自分自身を問い直すために、アイデンティティを引き受ける。この引き受けを通してこそ、私はこの社会における自己の「他者」への責任を見出すことができるのであり、(中略)社会の規範的構造を批判的に問い直し、それによって自己を「他者」へと開いていくことができるのではないだろうか。

共有しえないということの重さを共有していくこと

「私とあなたは違うから、あなたとは違う感覚を持っているから、残念ながら共有できるものはない。私もとり乱しているが、仕方がないだろう。」といって、お互いにとり乱したままに終わるのではなく、その共有できなさをお互いに確かめていくことが重要だと思われます。

(中略)「共にとり乱しながら結びつく」という連帯の可能性は他者との一致団結ではない。
田中が注意深く述べているように、それは「互いに共有しえない闇の、その共有しえないということの重さを共有していくこと」(田中 2004 : 165)であって、自己と他者の一体化や自己による他者の領有ではないし、そうあるべきではない。