考察や雑記。

性的モノ化ってなんだろう?

使われる女性

日本では「女性の身体そのもの」が集客や宣伝のために使われます。

そのように使われる「女性の身体」は、男性に向けてのものです。長らくこの習慣が続いてきてしまったがために、それが当たり前となってしまいました。そのため、あらゆる事柄に用いられるようになります。

たとえば町興しのためだったり、商品販売を促進するためだったり、何かの募集のためだったりです。

件の献血者の募集で、「女性の身体」を性的に描いたイラストを使う必要はありませんが、差別的な習慣や伝統の中で恣意的に使われてしまいました。

「使われる」や「用いられる」という言い回しは、よくモノに対して使われます。つまり、今回は集客や宣伝のために「女性の身体」はモノとして使われたことになり、これを性的モノ化、性的対象化、性欲対象化といったりします。

ただ単にモノとして使われることは他の事柄でもありますが、これは現実にいる「女性」という存在がモノとして性的に扱われています。

日本における性的モノ化の中で、よく行われる描写を少し上げてみますと、

肌を過剰に露出させたり、女性の身体の一部を強調したり、顔を赤らめさせたり、視線を下に落としたり、湯気を立たせたり、衣服をボディーラインにぴっちりと密着させたり、眉毛をくいっと下げたりなどです。

もちろんこれだけではなく、まだまだあるでしょう。

(余談。日本で描かれる女性のイラストは、大体が未成年のように感じるのはなぜでしょうか。)

男性を満たすためだけに存在しているわけではない。

現実の女性は、男性に対して性的に自分の体を見せているわけではありません。

「わたしはこれを着たいから」

「わたしはこういう格好でいたいから」

「わたしにとって、わたしのために」

という理由で、自分の表現としてさまざまなバリエーションのファッションを楽しみます。男性のためだけにやっているわけではありません。仮に「見られたい」という意識はあっても、常に性的に見られたいわけではありません。

その女性自身が選ぶのであって、それを他者が強制すると差別・支配になってしまいます。決定権はその女性にあります。

そして、女性のファッションが何でもかんでも性的な客体に還元されてしまうことは、あってはなりません。

あの献血ポスターは、どのように出来上がったのか。

男性は大きな仕事を担い、女性は家事、育児、看護、介護などのケアを担う。長時間働く男性を支えるのは、多くが女性です。

現在、女性は更に仕事も担いますが、「女性」という理由だけで低い評価を受けますし、評価されるまでもなく仕事にすら就けません。選択肢が最初からないのです。

ないからこそ、その座を取り合うことになってしまいました。これを見て男性は「やはり女同士の争いは怖いな」と嘲笑するのですから醜悪です。

そしてまた、女性には月経前症候群や妊娠などがあって男性よりも大きな制限があります。そのため社会は、女性が担う労働よりも遥かに恵まれた主要な労働を、男性が担っています。

男性に権力を与えて持ち上げ、優位にするシステムになってしまいました。

このような社会では、あらゆる表現が男性寄りの表象で出来ています。なぜかというと、男性が物事を決めるからです。その議論の中では女性の声は少数なので、たとえ意見を言ってもトークンにしかならないのです。

時には男性がその意見を聞き入れたりしますが、それは「聞いてやった」だけで、せっかくの意見がほとんど反映されません。ですので、決定権を持った大勢の女性が不可欠になります。

この決定権を持った女性は、男性の価値観を内面化した女性では務まりません。これでは男性の思う理想の女性像が具現化された形になってしまい、また、そのような女性は「女性の活用」や「女性の社会進出」という、男性が作った名目の中で踊らされていることになります。

差別

女性の身体に全く関係がない事柄でも、集客や宣伝のために女性の身体を性的に用いることは、差別です。

女性のそれまでの生き様や思想、唯一無二の個人性を無化して、「女性だからこうだろう」と扱い、レッテルを貼っています。これは、差別です。