考察や雑記。

ツイッターにおける愚痴の価値について

愚痴は、その場でされないから愚痴なのである。その場とは、まさに愚痴りたいような、罵りたいような状況に遭ったときだ。

本稿では、ツイッターにおける愚痴が、なぜ価値を見出されるかを考える。

本音

現実では到底言わないことを、ツイッターでは吐露する。公の場で無遠慮に吐露すると、対人関係に問題が生じかねない。さて吐露せずにはいられず、そのことが頭の中を延々と旋回し始めると、ツイッターで愚痴や個人が特定されない程度の陰口をするのである。これは誰にでもあるし、傾向の差はあれど、どのようなSNSでも行われる。ここでは、愚痴の方を扱う。

ツイッターの運営が始まった当初でも、内心の吐露をする方は、僕がフォローしていた中でも当然いらっしゃった。だが、次第に量質転化の側面が顔を覗かせてくる。利用者が増えるにつれて、これがまるで理の当然のようになったのだ。全くの主観であるが、運営年数が経つにつれて、惜しげもなく内心を吐露していく人が増えていったように思う。

さて問題は、その吐露「内容」である。

単なる愚痴でも、たとえば「医療従事者の患者に対する愚痴」の場合では、もはや単なる愚痴ではなくなってくる。そのようなツイートを見た人は、ツイート内容にたとえ賛同できたとしても、わかってはいても、実際は医療者を警戒してしまうだろう。医療者のイメージとそのツイートが、想起の際に被るのである。知覚を意識的に止めることはできない。

原理的に考えていることを抑制することはできないから、思惟することを他人が止めることなどできない。しようとすれば、暴力であり支配になる。だから、「当人が」発露させることを慎むように、よく心がけることが重要になってくる。発露の時点で、その考えていた内容は外在し、他者にも観測される。これは当たり前のことだが、意外と抜け落ちやすい。

(注意 これは「医療従事者全体」を戒める内容では、決してない。)

奇妙な使命感

上記の「医療従事者の患者に対する愚痴」の場合、発言者は奇妙な使命感に囚われていることがある。愚痴りたい欲とともに、それだけなく、「皆が言わないのであれば、私が言おう」と、率先して吐露していく。医療者の本音が公にされることはあまりないから、医療者の内心の吐露が価値のあるように思えるのだ。

あなた以外の、その「皆」(つまり、他の医療従事者)は、単に言わないのではない。言ってはならないことだから言わないのであり、そこで内省して己を制止させているのである。このような考えを持っている医療者の方が圧倒的に多いであろう。

だが、「本音」の方が目立ちやすい。時にネットは、局所的な事物を普遍的な事物のように見せかけてくる。本来はもっと多くの事実があるのに、示されるのはごくわずかであり、それ以外に判断するための材料がない場合、容易に信じ込んでしまう。

共同体の形成

「職場」と「私生活の場」は対極にあるから、それに伴って自己のありようもまた違ってくる。職場では言葉遣いや表情を変えて演じる必要があるのだが、そうかと思えば、私生活でも身内に対してまた違った演じ方をする必要が出てくる。いわばこの落差の大きさが精神を疲弊させるのであろう。

だから、どんな内容であれ、内心の吐露をしたときは反響がくる。愚痴は、演じていない本音ともとれるからだ。大体皆、同じように本音を放ちたいと思っている。もちろん、本音自体が全て悪いのではない。本音を言うのはとても大事なことだ。

今まで平凡なツイートをしていてもさして反響がなかったが、愚痴をするとフェイバリット(いいねのこと)やリプライがくるために、この反響が次第に自己の存在根拠となっていく。反響やフォロワー数は、その定量的な証拠だ。

このようにフォロワーと関係を結ぶと、さて本音を言わないと関係を保てなくなってくる。これはなかなか切れない関係である。共感は刹那的ではあるが、自己の存在を確認でき、自己の存在を確かに「感じる」ことができる点で、精神に対して強い作用がある。

さて、目立つツイート(主語をより拡大させたもの、特定のカテゴリを攻撃するもの、無関係な事物とある問題とを結び付けた独断論的なもの、自分より上位に思える人間をこき下ろして自分と同位にする憎悪的なもの…等)の方がフォロワーに疎まれそうだが、実際はそんなことはない。

より目立ちやすい本音の過激ツイートをするとフォロワー数を獲得できる。なぜかといえば、そのようなツイートを支持する人間にとっては「自分はなかなか言えないが、この人は言ってくれている」、「自分と同じ考えに反響がきている」ように感じるからだ。そうなると、自分の思想が賞賛され共感されているようにも思えてくるから、俄然支持したくなってくる。

こうしてみるに、皆が「包み隠さない本音のツイートこそ、価値がある」と思い込んでいくのは、必然的な流れだ。

また、発言者はフォロワーから「代弁者」なる存在として見られるから、発言者も徐々にそう自覚していく。ちょっと違うかもしれないが、僕はこれを、一つの共同体の誕生であると考えている。

少し話がずれるが、共感してもらうと、本音を吐露する「本当」の自分に価値があるかのように思えてくる。だが、どの自己のありようも、どれも重要なあり方である。本来的な、根源的な自己を見出してみても、それをまた批判する自己が次から次へと表れてくるのだ。存在している以上、これは止めようがない。もし、根源的な自己があるとしても、それは無として有るだろう。

ネットでは大勢

現実での愚痴は割と少ない人数間で行われるのであるが、ネットでは大勢になる。この違いも見逃せない。

※今回は「~です。」「なので~」「~になります。」のような、比較的 やわらかい文体ではなく、「~だ。」「~だろう。」「~だが」という堅い文体にしました。

文章を書く際、個人的にこれはあんまり好きではなくて、なぜかというと、人に説教をしているような気分になるからです。(笑)でも、書きやすいのは確かですね。