考察や雑記。

猫の哲学 なぜこの動物にふれようとするのか。

運動

部屋の中に僕と猫がいます。一つの空間に僕と猫とが存在する。

自分と猫との距離はおおよそ1メートルほどであり、僕の目には丁寧に毛づくろいをする猫が映っている。手をなめ、次に足やお腹をなめる。

これは物体として単に、機械的に、そこでただただ動いているわけではありません。即自(意識に対して意識してしないがゆえに自足していること)的であっても、絶対的に何らかの働きかけがあります。つまり、外界へ働きかけていて、これは内的な働きかけと両極の関係のように見えますが、全く同義であり、そして二次的です。それは極めて微細でも、何らかの働きかけがある。

どのような生命でも、それぞれ出来る範疇で運動(発声や行動など)や思惟に着手するとき、それはおそらく、自己の中心に向かって行われる。この自己は、人間の「人格」や「随時自己を観察できる主体」という意味合いだけではなくて、「存在することを拠り所にして、意志がなくとも存在することを実行している存在」のことも表しています。

外界へ向かうのは、あくまでも二次的なものであり、まずは自己に向かう。時に僕は、これが非生物でも同様だろうと思うことがある。存在していることが、既に絶対的な証明性を携えているという実感。

注意が必要なのは、かといって存在するもの全てが、全て同質ではありません。存在するという普遍性の中にあらゆる特殊性があります。

認識

僕の主観から見れば客体であっても、一方猫からも認識しかえしてくる。つまりは、僕も認識される客体としてあります。ですがここには偏りがあり、僕は猫を見ている時、常に猫を猫として認識する。認識する量をはかることはできないですが、明らかに人間の方が、猫を猫として認識して可愛がっているでしょう。

猫の一つひとつ動作や発声を、猫におけるものとして見る。これが猫を可愛いと思うゆえんです。

当たり前の話ですが、ただ単に「〇〇(手や足など)を動かしている。存在している。」ではなく、「猫が猫として〇〇を動かしている。存在している。」と認識するところに、「可愛い」が発生する。

不思議さ・不可解さ

…というふうに僕は、猫が猫としてあらしめられていることに、不思議さを覚えます。といっても、普段はこのようなことを考えないで、人間がそれがそれとして存在することに訝しがることもなく、何ら気にも留めないで物事を遂行していくことができるのは、人間における一つの性質でありましょう。

そして、僕が僕としてあらしめられていることも同様です。これは別に、あらゆる全てに対して懐疑的なわけではなくて、常にわたしたちは不思議さの真っただ中にある、ということです。

この不思議さはなぜ発生するのか。これになぜ今一度認識することができるのか。この問いは必ず発生する。

イメージ

もし猫にネガティブなイメージを抱いているならば、不可解さだけが前面に押し出されてくるでしょうが、そこは猫の特徴、顔の骨格や仕草に惑わされてしまう。大体のひとにとって、猫は初めて見る動物ではない。

あちらが認識してこなくとも、その存在をこちらが認識しただけで、こちらは既に惑わされている。この点において認識は、人間にとって切っても切れない不可抗力としてあります。たとえば、リラックスできるよう、あえて外界を認識(知覚)しないようにする工夫は、既にこの不可抗力に内包されていることを暗黙のうちに認めています。

ふれる

それが確実に存在していることをより確実的にしていくための、確実性を随時確実的にしていくための、ふれるという行為。ふれること自体は確実ではなく、確実性をより確実的にしていくための、担保としての行為です。

次にふれた瞬間、僕はふれた人になり、ふれた存在として確立される。ふれるとは先にいったような対象の確認だけではなく、ふれた存在として対象と関係を結ぶ。いまここに、同じ空間の中に、ふれた僕とふれられる対象とが同時に存在する。猫に至っては、かつお節やキャットフードがあれば難なく関係できる。これはさらなる不思議さ・不可解さです。

かといって、ふれること自体は高尚でも充足でも美しくもないと、いわねばなりません。確かに美しい様相を呈することもありますが、毅然と事実として捉える。なぜなら、これではふれるという行為が全てにおいて肯定されてしまうことにもなるからです。そこには暴力や蹂躙があり、身体の接触は 暴力性を持ちます。

対象は「ふれる」ことを許したのであって、決して「ふれられたい」わけではない。あくまでも「ふれさせた」のです。そして、ふれた存在もふれられているのですが、これはふれられた対象の抵抗と捉える。そのため「ふれ合う」は、その何千キロも先にあり、この成立は一つの奇跡として捉えなければならないでしょう。

共存以前であり、また共生以前である、「同じ空間に存在する」ということ。これはどういうことか。