考察や雑記。

なんでゲーム中に「痛いっ」って叫んじゃうの?

ゲームをしているとき、「ゲームの画面」と「画面の外の現実」は、常にちゃんと差別化されているでしょうか?

リアリティ

ゲームの画面だけを見ていますから、認識はゲームの世界観に没入しています。この状態だと、ゲーム内の方がリアリティがあり、「画面の外の現実」はリアリティがなく、感覚的には非現実です。一時的に現実と非現実が転倒しています。

 ですから、何かの事情でやむを得ずゲームを中断して「画面の外の現実」に無理やり戻されると、虚無感を抱いてゲームの世界観に恋焦がれてしまうのです。ゲーム内の方が、自分の存在に充足を感じられる状態。

 では、その自分は誰か?というと、ゲーム内の主人公です。ゲーム内の主人公に現実の自分が投影されており、これが「自分」です。ですから、主人公(自分)が穴に落ちたりダメージを受けたりすると、思わず「痛いっ」と叫んでしまうのですね。

 認識はその一点だけを集中して、他のオブジェクトや景色を無化させることができます。ですから、一時的にゲーム画面があなたの認識の「全て」になるわけです。

(余談。ということは、他のオブジェクトや景色を無化できる能力のことを「集中力」と定義できるかもしません。それがより持続的であればあるほど、「集中力がある」といえます。)

 昔のゲームだとドット絵の主人公が画面の中を動くだけですが、今はハイクオリティな一人称視点ゲームやVRのゲームが出始めました。そのため、「ゲームをしている」という自覚を、より意識しなくなると思われます。

人生はゲームみたいなもの?

「人生はゲームみたいなものだ」と豪語する人がいます。この言葉は、ゲームの世界と現実の世界、二つの世界の一体化を端的に表しているのです。もちろん、決して人生はゲームでもなくゲームみたいなものでもありません。

 ゲームは人間が作ったプログラムによって決まります。どれだけ複雑なプログラムでも、やはり人間の想像の範疇です。              

 機械学習が人間の想像を超えるといってみても、機械学習は人間が集めた材料の中でしか、思考することができないかもしれませんね。

連関性と非対称性

たとえば課金制のオンラインのゲームがあるとします。課金をすると、良いアイテムがもらえる上に、他のプレイヤーから羨望を浴びることができます。ですが、現実の預金からはお金が減ります。それが少額だと問題はないですが、多額だと現実の生活が立ち行かなくなります。

 つまり、ゲームと現実は連関性があります。預金が底をつくと、ついにはゲームの世界でも立ち行かなくなります。

 ゲームをすると時間が過ぎますし、ずっと空間の一点でほぼ静止するという身体の酷使でもあります。ゲームによっては目が疲れますし、血流も滞ります。それなのに、長くプレイすることによってゲーム内の主人公はどんどん充実していくわけですから、ここに非対称性があるのです。また、

 ゲーム内の現象、物質の運動、法則性は、そのゲームのプログラムによって決められています。なので、うまくプログラムに沿っていけば累進的に主人公が充実していきます。ゲームの世界は累進的に進むのに、現実の世界は全くそうではない。ここにも非対称性がありますね。

 この非対称性にどのように折り合いをつけるかが、重要です。

もし身近にゲームをやり過ぎちゃってる人がいたら…

深刻ではないにしても、ゲームのやり過ぎで生活に支障の出ている人がいるとします。あなたならどう説得するでしょうか。まず僕が思うのは、ゲームの世界に没入していることをただ批判するのではなくて、(それも一つの手ですが)その人の世界観をよく知った上で、上記の連関性と非対称性を言及して、提言する必要があります。

 なんだか格好をつけた言い方になってしまいますが、説得とは自分の主張をただぶつけることではありません。

 相手の主張、相手の感情表現、相手の不安さ切実さ、相手の思考の癖…などの論理的分析。相手の世界観を保持し肯定した上での、対症療法的な提言が説得です。批判でも同様かもしれません。

あまりに深刻な場合は、なんらかの治療が必要です。説得にも限界があります。