考察や雑記。

AIの人間

今回はAI美空ひばりについて書きます。

 とその前に、僕は当たり前のことを長々と書いてしまうようなので、今回はさらっと、はじめに結論を書いておきます…。

 生者と死者との関係性を、AIという今までにない圧倒的なリアリティが侵食すること。これが怖い。

 ※本題は記事下部にあります。

嘘の性質

嘘は本当が出てきて初めて嘘になるので、その本当が出てくるまでは、その嘘も本当です。事実になります。

 この場合、美空ひばりさんは既に亡くなっており、否定や肯定のできる本人はもうおられません。ですから、本当が出てこない限りその嘘は本当として流布されていきます。                        

 また、そのうえ本人に非常に近しい存在(家族や親しい友人)がいない。あるいはあまり表にでてこない場合でも同様だと思います。

 その嘘とは、下記のようなことです。

歌の間には「お久しぶりです。あなたのことをずっと見ていましたよ。頑張りましたね。さあ 私の分まで、まだまだ頑張って」という語りが挿入されている。(中略)
 秋元は、NHKスペシャルの中で、曲の間のせりふ部分こそ「いちばん伝えたかった所」と言い、「ひばりさんから『よく頑張ったわね』と言われたら、日本中がまだ頑張ろうと思える」と述べている。         
【論壇時評】AI美空ひばり 死者に語らせる危うさ 中島岳志

曲の間のセリフ部分は美空ひばりさんの言葉ではなく、秋元康さんの言葉ですが、そこは隠されてしまっています。

 「嘘も方便だ。別にいいだろう。」

「大昔の偉人にだって、同じようなことをやらせているじゃないか」

 と言われたら確かにそうですが、これは現代の著名な死者に自分の思想を投影して、さらに語らせていますから、もっと複雑な問題です。

 なぜなら、他者がAIという高度な技術を使って「美空ひばり」がまさに喋っているように見せかけているからです。

 権力は死者をも利用します。権力は恣意性そのものです。

人間の記憶の再生能力

人間の目はカメラと似た構造をもっていて、外界のありさまを頭の中に映し取ります。そして、わたしたちは一度見た景色や一度会った人の顔を、あとでまた思いうかべてみることができます。戦災でなくなった建物の姿や、戦死した人の顔かたちを目の前にあるかのように思い起こすことができます。
三浦つとむ著 「弁証法はどういう科学か」82P

たとえば、いまあなたは昨日の夕食を思いだします。そうすると、いま目の前で見ている景色は一旦無化されて、その過去の夕食の映像をまさに目の前で「見ている」ような感覚になります。ですから、過去の映像。さらにいえば妄想の映像も、現前しているような感覚になったりします。

 さて、「昨日の夕食はお味噌汁と鮭と白米だったなぁ、おいしかったなぁ」とうまく思いだせると、もう思い出す必要はありません。すぐに目の前で見ている景色に意識が戻ります。

関係性の切れない死者

友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに現存し、消えっこないのです。                      
例えば、大事に育てた一人息子が不幸な事故で亡くなったとしましょう。それでも、父親は父親なのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。                               (中略)私たちの想い出す、懐かしむという行為によって、死者は現前し続けます。不在のまま、我々に意味を与え続ける。
南直哉著 「恐山 死者のいる場所」132~133P

友人、身内、師匠、恋人など、生前に濃密な関係を構築した人とは、切っても切れない関係になるときがあります。

 何気ない日常生活を送っていても、ふと想いだしてしまう。その時の空気感や感情がふつふつと湧き立ってきて、現前する。この切っても切れないリアルな感覚こそ、おそらく死者と生者の関係ではないでしょうか。

 ただ過去を思いだすのと、想いだすのとでは全然違いますが、過去の映像や空気感、さらにいえば匂いや痛みといったものまでもが現前するのは、どちらも同じだと僕は思っています。(ややこしくて申し訳ない)

この現前するような感覚が重要です。

本題

大事なその人が亡くなったとしても、生者と死者という形で関係性は残ります。引用の本では、これを「不在の関係性」と書かれていました。

この関係性をいきなり侵食してくるのが、今回のAI美空ひばりです。AIという今までにない圧倒的なリアリティが侵食してくる。AIの人間は、誰かの手によって人工的に作られたものですから、遺族や近しかった方々が思う、それぞれの死者像とは異なるのです。

 人工的に作られたAIの人間を「本物のように」扱われるのが怖い。死者像が変容していくのが怖い。遺族や近しかった方々は、AIを仰ぐ世間の中で自分だけ置いていかれるような、奇妙な感覚に陥ってしまいます。

AIであり人工物だとわかっていても、そのリアリティに圧倒されてしまうのです。

 僕は別段AIを否定しているわけではなく、AIの人間がまがいものと言いたいわけではなく、(科学の進歩を否定しても仕方がない)いささか使い方に節操がないと思うわけです。