考察や雑記。

哲学 自己分析をすると、自己も分裂してしまうの?

自分を俯瞰的(ふかんてき)に分析するとき、「自分を分析している自分は一体誰なんだろう?」と、ふと疑問に思ったりしますよね。そのとき、本当に自分は分裂しているのでしょうか。

「私」が無限にさかのぼってしまうのか

「私」を俯瞰的に認識している「私」をまた俯瞰的に認識している「私」を…というふうに無限にさかぼのってしまうのではないか?という素朴な疑問が上がってきます。自己認識が無限に続いてしまうと、自己がいくつも分裂してしまい、自己が特定できないので、結局自己の分析は絶対的にはできないようにも思えてきます。

ですが、無限にさかぼっているように思えても、実際は「私」を俯瞰的に認識している「私」を…というふうにその構図がずれて平行移動しているだけで、「私」が無限に分裂しているわけではないのです。対象になっている自分自身が入れ替わりに認識される客体的な主体(注1)になっているだけで、常に対象を認識する主体が存在しているのです。もう一度言いますが、常に対象を認識する主体が存在しています。この認識する主体は、観念的な、対象を客体として認識する自己です。

想像の中の自分が観念的な自己なのですが、一つは対象を客体として認識する自己であり、いま一つは、対象として客体的に認識される自己です。"観念的な自己分裂"というのは、本当に身体が分裂しているわけではありません。一面的な説明ですがとても簡単にいうと、頭の中で現実とは別の世界の自分を想像する、ということです。

「魂」ってなんだろう?

想像をする際はなかなか自覚的になれませんが、想像の中の自分はあくまでも想像の中の自分であり、客観的に見れば、結局は現実に存在している自分がひとり想像活動をしています。ですが、想像の中の自分と現実の自分を一緒くたにして想像の中の自分を一般化したりして、どちらも現実に存在しているとすると、人間の精神性が外化(注2)されます。アニメやホラー映画にでてくる「魂」がそれにあたります。

病気で寝込むと「死んじゃうのかな?」と不安になって、布団の中で自分の死後を想像します。もしかしたら誰にも発見されないで部屋の中で朽ちていくかもしれない。そうしたら布団や床は死体のシミだらけになってしまう、なんてことを考えます。かと思えば、今度は死ぬ直前を想像して、もしかしたら「案外眠るように死んでいくのかな?」などと楽観的になったりします。

こうやって、死後と生前どちらも想像できることから、「自分」が自分の体から離れて、「自分」がこの現実の世界を遊泳しているようにも思えてきます。この「自分」が、すなわちよくいわれるところの「魂」(外化された精神)であり、想像の中の物(もの)や自分を認識する「自分」を、現実の世界に外化しているのです。

また、想像の中で自分を認識する自分が「真なる存在」であり、現実の想像している自分は「仮の肉体的な存在」とすると、二元的になります。現実の自分はいわば仮の肉体的な存在であり、想像の中の自己認識する自分が真なる存在になるのです。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の「我思う我」は自己認識する自分のことです。

自己と世界の二重化

上記のことと部分的にかぶりますが、注意しなければならないのは、「認識する主体的な存在である観念的なあなた」を「本当の自己なる存在」だとしてしまうことです。二重化した際の「現実で想像している自分」を切り離して、想像の中の「観念的な自分」だけにしてしまう。奇妙な表現になりますが、つまり二重を一重にしてしまっているのです。ですが、この観念的な自分は現実のあなたの想像活動によって起こるものなのであって、現実の自分なしに「はじめから」存在しているわけではありません。

想像の中の観念的な自分だけ取り上げてしまうと、人間が存在する前から「本当の自己なる存在」が存在していることにもなり、「魂」の無始無終が説かれることにもなります。

物も一緒についてくる

想像は現実の反映なので、想像活動は現実の世界と同じように物や空間性もくっついてきます。

注意してほしいのが、反映というと外界の全ての要素を人間は認識し尽すことができるように思えます。ですが、人間は外界を一定の限度で認識できても、全てを認識し尽くすことはできません。かといって、直ちに、「物の性質を全く認識できない」ということにもなりません。

「われわれはいかにもすべての客体を認識できるであろうが、しかしどの客体をも認識しつくし、知りつくし、或いは把握しつくすことはできない。いいかえれば、客体は認識の中へ解消するものではない。頭脳の中には事物の無限の多様性と無数に豊富な性質を入れる余地はない」(ティーツゲン『人間の頭脳のはたらきの本質』)
完全な認識は定められた制限の内においてのみ可能である。完全な真理とは常に自己の不完全を意識している真理である。」(上同)(太字は原文では傍点)
現実の世界は、時間的・空間的に無限であり、また無数の異なった事物から成り立っている、ところが人間の認識には限界がある、従って完全な・そのままの・模写はすべて一定の限度の中でのみ可能なのであって、この限界があるからといって直ちにそれが模写でないとか実在は疑わしいとかいう結論を出すのはまちがっている、ーこれがディーツゲンの反駁です。この、認識は完全な模写でありかつ不完全な模写であるというのが、実は正しい模写説なのです。三浦つとむ著 「弁証法はどういう科学か」 109~110P(引用ゾーンが切れているが、省略されてはいない)(太字引用者)

ここで家の間取りを想像してみましょう。たとえば、傘立てのある玄関を想像してみると、あなたはその玄関を見る主体になっています。そうすると、「対象を見る主体であるあなた」には必ず「物」も一緒についてきますね。この「物」というのは、玄関そのものでも傘立てでもなんでも、現実には実体的ならば「物」、つまり物質です。「玄関って物質的なの?」と思うかもしれませんが、物質のあり方は空間的・時間的なので、玄関という「空間」も物質的です。

それは「存在の根本形式」だといっています。空間と時間は物質的存在そのものではなく、物質的存在のあり方(形式)だというのです。物質は空間的で時間的なあり方をしているということです。つまり物質が空間を形づくっており、時間的に存在を持続させているわけです。鯵坂 真:福田 泰久: 浜林 正夫 著 「『反デューリング論』を学ぶ」28P

では、物も一緒についてくることから、想像した「物」までも、想像活動に依拠しているのでしょうか。言語学者である三浦つとむは、フォイエルバッハを引用してこういいます。

フォイエルバッハはこれに反対していう。「私がソクラテスプラトンのことを考えなければ彼らは私にとって存在しない、ということから、彼らはかつて私なしに存在したことはなかった、ということにはならない。」ソクラテスプラトンのことを考えるときは、想像の世界に対象化するから、彼らとそれを見ている観念的な自分とは不可分にはちがいないが、現実の世界でのソクラテスプラトンはわれわれがまだ意識を持たない以前に死んでその姿を消してしまったのであるから、意識から独立して物が存在するということも認めないわけにはいかない。

想像する際、現実の反映として想像の世界には人物や建物などの「物」も、一緒についてまわることから、あなたの想像にこれら「物」も依拠しているようにも思えますが、あなたの想像、あるいはあなたの存在なしにこれら「物」も存在しえない、ということにはならないわけです。

「長々と語られているが、一体なにを論点にしているのかすら、よくわからない」と言われてしまいそうですが、たとえば私がソクラテスを想像していることから、ソクラテスは現実に存在していることにはならないし(既にソクラテスは死んでいる)、"意識から独立して物が存在するということも認めないわけにはいかない"のです。

想像をしている最中は、想像していること自体をあまり意識しない

想像をしている最中は想像していること自体をあまり意識しません。また、想像をした際に「想像をした」と意識することもあまりありません。自覚しにくいのです。なので、想像に耽っていたら気が付くと何十分も時間が過ぎていた、なんてことがあります。その上、想像の中での「視点」は現実の視点の反映なので、想像した際の自分が、想像の自分なのか現実の自分なのか区別できなくなってしまうこともあります。

注1 客体的な主体:自己認識する際、認識される客体的な自分がいますが、この客体的な自分も、認識されるまでは主体です。なので、客体的な主体になります。

注2 外化:フォイエルバッハの外化のことです。精神活動は人間の頭の中で行われていますが、これを現実の世界に持ち込むことを外化といいます。

たとえば、金縛りの最中は夢を見ていることが多いですが、この場合、目を覚ましている状態と夢を見ている状態の差がほとんどないので、金縛り中の夢の中の出来事がまるで本当に起こっていたかのように思い込んでしまいます。「夢を見た」、あるいは「夢を見ている」という自覚が欠けている状態です。自動発生的な夢という空想が現実化されている、つまり頭の中で行われている精神活動が、現実の出来事として扱われています。