考察や雑記。

なぜ「正論」は忌避されるのか

日の沈む夕暮れ。ある二人が今日の夕食を決めかねている。一方のA氏は「サラダ巻き」といい、一方のB氏は「カツ丼」という。だが、意見が分かれた。そこでB氏は「子供がもうすぐ高校受験をひかえているから、願掛けのために『勝つ』丼のほうがよい。それに、カツ丼の方が作るのは簡単だ」と主張した。少しも科学的ではないが、願掛けという心意気はよい。勉強は頭を使うから、確かに十分な栄養が必要である。この主張は正論である。(おそらく)

これにA氏は不満である。A氏としてもこの主張は正論だと理解しているが、やはり不満である。なぜか?A氏が、夕食を作る立場にあるからだ。

しかも、B氏は子のためを思う以上に自分の意見を通したいのであって、正論が確かに正論であることの担保は割とどうでもよい。論理的合理性だとか現状における妥当性だとかを、B氏は重要視していない。つまり、「正論のような」主張であれば、実は何でもよかったりする。

このことにおいて、B氏はカツ丼を食べられる立場であると同時に、カツ丼を作ってもらえる立場にある。対してA氏はサラダ巻きを食べられない立場であると同時に、カツ丼を今から速やかに作らなければならない立場にある。それに、ここで強く反論した場合、B氏は突然に憤怒するかもしれない。

本題

A氏が、B氏と全く同じような正論を主張した場合はどうなるか。B氏は、先のA氏よりも強く不満を抱くであろう。まるで、正論で自分の立場を崩されているように感じるのである。相手の立場の方が、一時的に自分より優位にあるように感じる。その正論の内容が客観的にも論理的な合理性を持つとしても、またB氏がそれを認めるとしても、それ以上にB氏は正論を発言しているA氏の「立場の変動」が気に入らない。

B氏は今、自分の立場の崩壊を一時的に自覚しなければならない。どのような立場であるかといえば、自分が、まるでA氏よりも劣位にあるような立場である。だからこそ、そこで使われている「正論」を、目の敵にして攻撃しないといけない。直接的に「お前の態度が、お前の身分が気に入らない」と言うのはさすがに憚るから、A氏が依拠している「正論」そのものを、まず攻撃せねばならぬ。これも一つの戦略的なやり方なのだ。

「正論で人を殴るな」と主張する者は、己もこのように正論を主張していることになるが、このような単純なパラドックスが生じる原因は、正論のみを目の敵にしているからである。どんな者でも主張はするし、より確かな論拠を考える。なのであるから、論拠や言葉のみを封じるのは端的にいって卑怯であろう。自分は「正論で人を殴るな」と正論を用いておきながら、しかも自分の立場を透明化しておきながら、相手の論拠そのものを奪い、相手の立場を貶めるのは、よく見られる常套手段だと思う。

本来ならば、正論と発言者の立場を、セットで考慮しなくてはならないはずだ。正論はただの道具ではない。正論は発言者の立場に関係して、おのずと立場を形成させる。そのため、「正論で人を殴るな」と正論を言うことも、立場を形成する行為である。中立にはなりえないし、暴力や差別などの悪事を抑止するような実践でもない。

唯物論として見れば、音声や文字で示される正論は、立場を形成する実体である。客観的観念論のように「正論のみ」が社会的なグループを形成するのではなく、正論とその正論を言う発言者の「総和」によって社会的なグループが形成される。(もちろん、総和といってもグラデーションや立場の交差がある)

誤謬について

真理はある一定の條件の下においてのみ真理であって、或る条件のもとでは誤謬が却って真となる。太陽は輝くということは真実な知識である。但し、空が曇っておらぬことを前提としてである。真直ぐな棒は水の流れに突っ込めば曲るということも、若し視覚の上の真理ということに限るなら、右に劣らぬほど真実である。
(略)誤謬が真理と異なる点は、誤謬は、それが表している一定の事実に対して、感覚的経験が保証している以上に、より広い、より一般的な存在を、誇張的に認めるところにある。誤謬の本質は僭越ということである。硝子の玉は、本物の真珠を気取る時、初めて贋物となる。ヨゼフ・ディーツゲン著 「一労働者の観たる人間頭脳の働きの本質」77~78P(太字引用者)

たとえば、音楽理論を知らなくとも、良い曲を作る者はいる』」という事実から、「音楽理論を知らなくとも良い曲を作れる」と一般的に判断すれば、それは誤謬である。「音楽の理論を知らなくとも良い曲を作る者」は、実は特殊な場合なのであって、これを一般化しては誤謬になってしまう。一般的に見れば、良い曲を作るには音楽理論の勉強が大前提になる。

絶対的な真理は存在しないのか

単純に「絶対的な真理は存在しない」わけではない。上記の引用の通り「真理はある一定の條件の下においてのみ真理」であり、その範囲内であれば、それは真理である。上記の「音楽理論を知らなくとも、良い曲を作る者は『いる』」というのも、実際にそのような作曲家は少数ながらも確実にいるわけであるから、この命題も一定の条件下では真理である。極めて優れた才覚や継続的なやる気という条件を持っていれば、この条件下であれば、音楽理論を学ばずとも良い曲を作れるかもしれない。ただ、先にも言ったように、一般的には良い曲を作る作曲家の多くは、音楽の理論を学んでいた。

「絶対的な真理は存在せず、全ての真理は平等に相対している」わけではない。そして、もし仮に、全ての真理は平等に相対化されているとしても、「全ての真理がそれぞれ平等に尊重される」わけではないだろう。仮にそうだとしても、どこかおかしい論理である。

「真理Aに反対している真理Bは、真理Aの何から何まで反対している」わけではない。相対する真理AとBにも、部分的にはお互いに肯定している事柄があるのは、日常的に誰もが実感していることだ。牛乳がひどく嫌いな者でも、牛乳の栄養価までは否定しない。