考察や雑記。

一人称ってなんだろう?

話し手と話し手自身との関係を見てみる

まずは「自分」に着目してみます。私たちが、一人称の「自分」や「私」というときは、話し手と話し手自身との関係を指し示しています。グレーゾーンは引用です。

一人称の表現の場合、見たところ対象となっている自分と話し手は同一の人間です。しかし何かを対象としてとらえるということは、対象から独立してその対象に立ち向かっている人間が存在しているということなのです。対象とそれに立ち向かっている人間とが同一の人間であることはできません。
一人称の場合には現実に同一の人間であるように見えても、実は観念的な自己分裂によって観念的な話し手が生れ、この分裂した自分と対象になっている自分との関係が一人称として表現されるのです。三浦つとむ著 「日本語はどういう言語か」129P(太字原文)

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(同著 128P 図)

"観念的な自己分裂"というのは、本当に身体が分裂しているわけではありません。とても簡単にいうと、頭の中で現実とは別の世界の自分を想像する、ということです。「私はみかんを食べました」と話すとき、過去の食べている自分を想像してますよね。過去の食べている自分は現実とは別の世界の自分です。なので、現実に想像をしている自分と同時に、想像の世界の中にも自分がいることがわかりますが、これがここでいう「分裂」の意味するところです。「自己の二重化」というふうに表現されることもあります。

一人称は、たとえば「私はみかんを食べました」と表現をする話し手と、表現される観念的な話し手との関係であることがわかります。表現している自分は、過去の「みかんを食べている自分」を認識して表現する主体的な存在で、対象になっている過去の「みかんを食べている自分」は、表現される客体的な存在です。"分裂した自分と対象になっている自分との関係が一人称として表現される"わけですね。もちろん過去や未来でなく、「私は今からみかんを食べます」という現在のことでも同じです。これも認識して表現している自分と、対象になっている表現される自分、という関係であることがわかります。

私の推測ですが、このような表現は、「私」を俯瞰的に認識していないとできないことでありましょう。自分自身が「何かの対象になっている」という関係そのものを認識していなければなりません。少しややこしいですが、一人称の場合は、自分自身が「私」として認識される、客体的な主体になっています。それでいて、表現しているのも自分自身であり、この関係が一人称になります。

ちなみに「観念的」というのは、実証的・現実的ではなくて、思弁的に頭の中のみで考え、これだけをより所としているようなさまのことや、現実をより所にしないで頭の中だけで考えるさまのことをいいます。