考察や雑記。

「時間」について

過去と現在について

人は、現在にある「過去の痕跡」を過去のものとして、現在において扱う。

砂浜に足を踏みつけると足跡が残るが、これは過去の痕跡であり、それでいて現在の痕跡であるから、この足跡は対立物(過去と現在)が統一された形で表れている。

この対立は観念的である。なぜなら、過去と現在は人間の必要によって便宜的に用いられている概念だから思辨的であり、すなわち頭の中の抽象物に対する確信である。だけれども、これを外化させ、実際に約束や時計として存在していると、抽象物が客観的な事物として思えてくる。

因果

足跡を残した当人の靴には砂がついていて、尚且つ靴の凹凸と足跡とが一致している。ここには連関性や因果性があり、その足跡はその人の行為によって存在し、その人はこの行為によって自己が規定される。つまり「砂浜を踏んだ人」として規定される。証拠はここから導き出される。

証拠は、それを観測する本人や何者かによる推測等によって形成されていくから、初めから証拠としてあるわけではない。たとえば、思惟活動である推測が現実の対象(この場合は砂浜の足跡)と結びついて、証拠たりえてくる。砂浜の足跡のように単純なものであれば、別段そこまで推測するまでもないが、対象が複雑になってくると、認識もそれに合わせて複雑にする必要があって、そのためより複雑に推測するために、解剖師や検視官等の専門の組織の出番となる。

自然における万物の流転

人間は、感官によって物体の変化を観測することができる。つぼみを見、数日後には花を見る。こぼした水で塗れた紙を見、数時間後にはくしゃくしゃに乾ききった紙を見る。もちろん、見なくとも触ること等によって形状の変化具合を捉えることもできる。

これら個別的な事物の「変化」の共通点を導き出すと、「万物は流転する」ということがわかるが、これが言語で表現されるところの「時間」と結びつくと思われる。物体の変化を観測した際に、前後の変化を比較しているのである。だけれども、つぼみが花咲く間の、この変化間隔を「時間」と表現されると、時間なるものが流れているように感じてしまう。

「時間」は、人間がただ能動的に作り出しているわけではなく、実際はこのように外界のあり方を知覚しているわけだから、受動的でもある。それなりに外界の反映があって、主観だけで「時間」が存在しているわけではない。外界と知覚による、相互浸透がある。

自己と世界の二重化

原始的な火おこしは、木の棒で摩擦を作り出して火を授かる。火おこしをする者が、まさに火をおこそうとしている最中、その者の頭の中では未来のあり方が予想される。それは、「火がボウっと燃え上がっているところ」で、その者はこれに近づこうと、火おこしに励む。

世界は、現実と想像とで二重化する。現実で火おこしに励む世界と、火おこしに成功して燃え上がる炎を見る世界である。前者が現実の世界であり、後者が観念的な想像の世界である。自己もそれに伴う。

自己もそれに伴うというのは、観念的に自己も分裂しているということで、「火おこしに励んでいるときの自分」は現実の自己であり、「燃え上がる炎を見る自分」は観念的な自己である。世界の二重化と同時に、自己も二重化する。

この場合は予想であるが、ときに、想像の世界は現実の世界における自己を、想像の世界にいち早く移行するよう駆り立ててくる。つまり、想像の世界と現実の世界との一致を促すのである。

こうした一連の思惟活動が、客観的に「時間」を感じているような錯覚を起こすと思われる。現実の世界と想像の世界の、この相互浸透や連関が「時間」なるものを確固たる存在として位置付ける。

※これは「このように考えるとこうなる」という話であって、エンゲルスもいうように、もちろん存在の根本的な形式は空間的で時間的だ。つまり、「空間・時間は物質的に存在している」というより、空間的・時間的というのは物質のあり方だ。物質は空間的・時間的な存在形式(あり方)をしている。たとえばチョコレートを例に出そう。チョコは物質的にその空間を占めているし、全く溶けない・変化しないチョコがありえないように時間的にも経過して存在している。