考察や雑記。

Vtuberの変遷は映画の黎明期と共通する部分がある

今も黎明期であろうが、Vtuberの黎明期と映画の黎明期と共通する部分がある。表現や言語や認識など、幅広く研究をしていた在野の学者、三浦つとむの「芸術とはどういうものか」から引用しよう。(見やすいよう引用に切れ目を設けたが、原文自体に一切省略はない。)

映画は「動く写真」として誕生した。スクリーンの上に投げられた映像が動くということ自体が、驚きであり興味ある見ものであったからである。映画を撮影したり映写したりするためには、複雑で高価な機械をそなえて、熟練した技術者が操作しなければならなかった。それゆえ、映画はまず見せものとして、興行のため金もうけのために使われることになったのである。

映画が動くだけでは観客が満足しなくなると、演劇をフィルムに記録して映画を通じて演劇を鑑賞させるという、新しい興行のあり方が工夫された。既成の演劇にキャメラを向けるのではなくて、映画のために独自の「劇」を演じてこれをキャメラにおさめる方法も次第に発展していったが、この「劇」には演劇で活躍している俳優が動員されたのである。p147(太字引用者)

引用の「スクリーンの上に投げられた映像が動くということ自体」の部分は、Vtuberであること自体の付加価値と重なる。Vtuberも当初は、そのキャラクターが仮想の中で動くこと自体が、もの珍しく感じられた。当初は動かすこと自体が難しく、専用の機材を使うにはある程度専門の知識が必要であったし、機材は高価で、資本を持たない者には簡単に手を出せるものではなかった。これは、引用の「複雑で高価な機械をそなえて、熟練した技術者が操作しなければならなかった。」の部分と重なる。VRヘッドセットなどは比較的安価だが、現在でも高度なモーションキャプチャーを可能とする機材はまだまだ高価であるから、高価な機材の購買は資本をもつ企業が有利だ。また、自分で購買するのではなく、少数だが事務所と専属契約を結んでそれらの機材を用いるVtuberもいる。

物理的な技術や技能の発展によってある程度アバターの動きに自由度が効くようになると、録画されたライヴや面白おかしい茶番劇を公開、または配信して鑑賞者を楽しませるようになった。これは、引用の「映画が動くだけでは観客が満足しなくなると、演劇をフィルムに記録して映画を通じて演劇を鑑賞させるという、新しい興行のあり方が工夫された」の部分と重なる。身体とアバターとの同期を可能にするだけでは、娯楽の提供としては不十分か、あるいはあくまで他の娯楽要素を補完するに留まるのだ。

引用と大きく異なる部分はリアルタイム性で、Vtuberはリアルタイムで物語が展開する。

声優と俳優の違い

引用の俳優の部分が、Vtuberでは声優に置き変わっているが、実際の多くは、そのどちらでもない声を売りにはしていないVtuberだ。また、中には声優志望のVtuberもいる。当初は声優が声と身振りをアバターに当てていたため、声優に焦点を当てる。

声優にしても俳優にしても、どちらにしても演者であることに変わりはない。俳優も身体を使っているし、声優も同じである。声優は声のみを使って表現しているとみるのは間違いで、声を出す際に身体全体を使っている。それが声に特化している。世の中には種々様々な労働があるが、たとえば農作業における田植えと稲刈りは同じ農作業でありながら身体の使い方が異なる。俳優と声優の違いもこれと全く同じで、同じ表現に関わる労働でありながら身体の使い方は異なる。